お楽しみ

1年前の今日と同じく、埼玉県のお寺で法話をお聴聞しました。


ご講師は紫藤常昭先生です。福岡県の先生なので、首都圏で聞ける機会は多くありません。こうしたご縁はありがたい限り。

最初に申し上げますが、“お説教”というのは“お楽しみ”であります。後からテストなんていう惨(むご)いことは決していたしません。どうぞ皆さん、分かろうが分かるまいが、分かったようなフリをしながら「ふんふん」と……いや、本当に仏さまの話は分からんのです。「南無不可思議(なもふかしぎ)」とありますから。「不可思議」というのは「分からん」ということです。「分からない話を黙って聞け」というのが仏法なんです。

ところが、私たちは「世の中に我が輩ほど賢い者はおらん」と思って生きています。
うちの母親は93歳です。93の婆ちゃんがテレビを見ながら日本の首相の悪口を言います。本人は日本国総理大臣よりは自分の方が賢いと思っているんです。
私もテレビを見ながら他国の大統領の文句を言いますから、大統領よりはマシだと思っているんです。
だから、この目で見えないものないもので、この頭で理解できないものは嘘か自分に必要のないもの……とどこかで思っています。
ですが、仏法は「その頭を捨てよ」といいます。相当に賢い頭かも知れませんが、いよいよいのちの終わるときには、この鍛え上げた頭というのはあんまり役に立たないのです。
だから、仏さまの話は仏さまの話として黙って「ふんふん」と聞いておくようにいわれます。
まぁ聞くほうはそれでいいかも知れませんが、話す方はそうもいきませんので──

「仏さまの話を聞く」ということについて、お決まりの口上から先生のご法話は始まります。

ちなみに私のように先生の追っかけをしているファンはこのフレーズをだいたい暗記しています。

合掌

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2018年03月01日