聞法会


首都圏に新しくお寺を作った(都市開教)ご住職たちによる法話会。


今回で12回目になるといいます。特別ゲストに練馬区の大江宏玄先生がご登壇。


蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文章(ごぶんしょう)から「白骨章(はっこつしょう)をテーマにした法話です。
上人が「白骨章」を著された経緯には3つの説があることがよく知られます。そのうちの2つをご紹介くださいました。

大阪で書かれたとする説は次のようにいわれます。

蓮如上人が大阪の石山本願寺にいらっしゃった時のこと。その近くに久次郎(きゅうじろう)という他宗派の人が住んでいました。本願寺に出入りをして御堂の仏様への給仕を熱心にしていたといいます。
あるとき、久次郎の8人の子どもたちが次々に亡くなるという悲劇が起きました。自分の息子と娘を見送り、深い悲しみに暮れる久次郎とその妻。この世界の無常について蓮如上人に問い訊ねたところで認(したた)められたのがこの「白骨の御文章」といわれます。
久次郎は御文章を通じて明日とも知れぬ我が命の真実を知り、その命に至り届く仏さまの慈悲に感動をして浄土真宗の僧侶となっていたそうです。
法名を「釋 乗雲」と名乗り、本願寺の僧侶たちの末席に列して勤行に励みました。現在の本願寺で青い衣を着て末席に座る人を「列座(れつざ)」と呼ぶのは、ここから始まったといいます。
これは『御文略解(おふみりゃくげ)』という書物に載っている話です。
もうひとつ、『御文来意鈔(おふみらいいしょう)』には次のような説が載っていました。こちらが主流の説です。

蓮如上人が京都の山科本願寺にいらっしゃった時のこと。近くには安祥寺村(あんしょうじ)という村がありました。その村に青木民部(あおきみんぶ)という武士が住んでいたそうです。
この武士の娘である清女(きよめ)が17歳になり、身分の高い武士と結婚することが決まりました。
大い喜んだ民部は先祖伝来の大切な武具を売り払って着物や箪笥といった嫁入り道具を買い揃えて、挙式の日を待ちます。
いよいよ嫁入り当日がやってきた……と思ったその日に清女が急死。
もちろん、結婚式は中止です。代わりに行われたのは花嫁の葬儀でした。
火葬して、白骨を納めて帰った民部は「これが待ちに待った娘の嫁入り姿か」と悲嘆に暮れました。その悲しみのなかで彼もまた娘の後を続くように急逝を遂げます。
娘と夫に先立たれ、残された民部の妻の悲しみは筆舌に尽くせないものです。そうした失意の中で彼女もまた亡くなっていきました。

青木家の連日の葬送に参加した縁者たちは、蓮如上人の元を訪れ、この世の無常を説いた御文章の執筆を懇請。蓮如上人は「白骨章」を書き始めることにしました。
その2日後のこと。山科本願寺の土地を寄進した海老名五郎左衛門(えびなごろうざえもん)の17歳の娘が急病で亡くなった報せが上人のもとに届きます。
葬儀に参加した上人に対して、海老名五郎左衛門もまた諸行無常の世界について記した御文章を書くように願いました。そうして書き上げられたのが「白骨の御文章」です。


午後からも引き続きお聴聞か成先生の勉強会に参加しようと思いましたが、法務のため離脱。

合掌

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2018年02月05日