スイカ泥棒

主催する勉強会が開催され、次のような話をお聞かせいただきました。

昔、とある和上が法話の中で「スイカ泥棒が『なんまんだぶ、なんまんだぶ』とお念仏を申しながらスイカを盗む……これは健全な念仏者のすがたです」とお話ししました。
この発言は本山・西本願寺で大きな問題となりました。

「和上がそんなことを言っていいのか!」

「泥棒を容認するなんてけしからん!」
その問題を取り上げて、ある先生は次のようにおっしゃいました。

「和上を批判した方々は、『念仏者はスイカ泥棒をしない』と考えていらっしゃるのでしょうか。
しかし、その理屈は『宗教』と『道徳』の混同です。
『宗教』と『道徳』を取り間違えるとこうした誤解が生まれます。『宗教』=『道徳』ではありません。

場合によっては何をしでかすか分からない……そうしたものを私たちは死ぬまで抱えて生きています。
『念仏者≠スイカ泥棒』は、『宗教』と『道徳』の違いが分からない人の意見です。」
「ところが、ここでもうひとつ問題があります。

『阿弥陀如来はどんな悪人でもすくうというなら、いくらでも悪いことをしてもいいじゃないか』

こうした意見が必ず出てきます。」
「こちらの意見は『宗教』と『無宗教』の混同です。

『無宗教』の人はこうした理屈を展開しがちですが、阿弥陀如来のすくいを聞く宗教者は『なるべくならば、仏さまに顔向けができない恥ずかしいことはしないようにしよう』といった指針を心のどこかに持っているものです。」
「仏さまが私をご覧になっている──もちろん、仏さまは私を責めることはありません。

ですが、仏さまの眼差しを生きるなかに、どこかしら心のブレーキのようなものが生まれるのではないでしょうか」
「それだけでなく、『できるかぎりの善をしよう』と考えることもできるようになります。

確かに自分自身には本当の善はありません。良いことをしても、相手の態度によっては人を恨む心が出てくるような私です。
私の善はどこまでも否定されていくのが仏法の世界でしょう。

私の善はあくまでも借り物の善であり、偽物の善ある一方で、真似事でもいいから善をしていこう──そうした態度があってもいいのではないでしょうか」
「自分の善が場合によっては相手を傷つけてしまう……そのことを知ったうえで、できる限りの善を積むように心掛けることもできます

そのときだけは、自分の善を少し肯定できるのかもしれません。

私が私の怠け心に言い聞かせ、自分の善はどこまでいっても偽善であることを自覚できれば、相手がいくら態度を悪くしても、あまり気にならないものです。

ところが、自分の善は本物の善であると勘違いしていると、相手が自分の善を受け容れてくれないときに『せっかくしてあげたのに』『相手が悪い』『相手が間違っている』と恨み言がでてきます。

私たちには、偽善とわかってする善があってもいいのではないでしょうか」

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2019年03月03日