慈悲と教育

主催している「やさしく学ぶ浄土真宗~『歎異抄』を読む~」という勉強会が開催されました。【ホームページ


今回は『歎異抄』の第4条を通じて「慈悲」について学びました。

私は慈悲と教育の関係をずっと考えてきました。

もともと、「阿弥陀さまの慈悲」を伝えてたのが浄土真宗の僧侶です。
ところが、ある時から僧侶が仏教(特に浄土真宗)を龍谷大学をはじめとした教育機関で学ぶようになってきました。
すると、仏教が「宗教」から「学問」へと変わっていきます。

教壇で先生が生徒へものを教える「教育」の論理で仏教に触れていくと、それを聞いた僧侶自身も「教育者」となります。
「ものを知らないご門徒さんに、ものを知っているお坊さんが教えてやろう」といった態度になると、法話そのものが「教育」になってしまうのです。
しかし、ご門徒さんは僧侶から「教育」を受けるためにお寺へやってくるわけではありません。

思い返せば、私たち自身も僧侶の資格を取得するために「得度」を受けたとき、「阿弥陀さまはありがたいですね」とは先生は教えてくれませんでした。
では、何を聞いたかと言えば「浄土真宗は清めの塩を用いない」「焼香は1回じゃないとダメです」「法名は2文字でなければいけません」といった「こうでなければダメです」「これをしなければいけません」といったルールばかりだったような気がします。
もしかしたら「仏さまがありがたい」と教えてくれていたのかもしれませんが、きっと私に受け取る力がなかったのでしょう。

いずれにしても、得度や大学などでは僧侶としての根幹となる「阿弥陀さまはありがたい」といった言葉が伝わっていないように思います。
何かを教えようとする僧侶が増えた結果、慈悲の話がお寺では聞くことができなくなったのではないでしょうか。

お寺に参拝者が減っている理由は、社会的な側面や家庭事情の変化などいろいろと考えられます。
ただ、浄土真宗という教えで、理想的な門徒に教育しようという感覚が強くなるにつれて、お寺の本堂が味気ないものになってしまったと感じています。

お慈悲の話は人間の常識とは違う話です。
「愚かなあなたに変われというのではなく、認めるのだ」とおっしゃる仏さまの話です。
もっと言えば、一切の教育を放棄したのが阿弥陀さまです。
なぜかといえば、「言っても変わらない」からです。
「あなたの苦悩の原因は煩悩があるからダメなんだよ」と言っても仕方がありません。
「ウソをついてはダメだよ」と言ってもウソをついて生きています。
「人を恨むことは罪ですよ」と言っても、そうせずにはいられないのです。

「そうか、そんなあなたであるならば、私があなたを救える仏となるよ」とおっしゃった仏さまは、私たちに罪を告げて「変われ」とおっしゃる仏さまではないのです。
「罪深きあなたを救える仏となるよ」という仏さまがいらっしゃる──そんな話をしていると、たまに「今までとはまったく違う話を聞きました」とお寺で声をかけてくださる人がいます。

時代が変化するにつれて、僧侶に「慈悲」の考え方が失われ、「教育」の話しかできなくなってしまった現状があるのではないでしょうか。

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2019年02月22日