主催している内藤知康和上による『教行信証』の勉強会を開催しました。【ホームページ】
前回に引き続き、「信文類」の別序について学びます。
浄邦(じょうほう)を欣(ねが)ふ徒衆(としゅ)、穢域(えいき)を厭(いと)ふ庶類(しょるい)、取捨(しゅしゃ)を加(くわ)ふといへども毀謗(きほう)を生(しょう)ずることなかれとなり。
最後の一文の「取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり」について、内藤和上から次のようなご講義をいただきました。
「取捨を加ふといへども」とあります。つまり、「取ったり捨てたりすることはいい」と聖人はおっしゃってます。
ところが、「謗っていけない」とも仰せです。
「往生浄土の法門を私はとりません。私は聖道門、自力の修行でさとりへ向かって歩むんだ」……これは別に構いませんという態度です。
「しかし、だからといってご本願のご法義を謗ってはいけません」……このようなお示しとなっています。
このように、「別序」では「取捨」は容認されています。
ただ、「総序」に
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
とあるように、「正しいご法義を聞いた者は、あれこれと考えることなく受け容れるように」と、最終的にはご本願の道に入ってくださいというのが聖人の本意です。
決してご法義を「捨てても構いませんよ」と軽視しているわけではありません。
聖人ご自身は「これまで無数のいのちを受けてきたなかで、その間ずっと本願の教えに出会いながらはねつけてきた」とおっしゃってます。
このたびのいのちにおいては、初めてご本願のご法義を受け容れることができた……そのことを非常に慶んでいらっしゃいます。
もしこの度の生で聞くことができなければ、また迷いのいのちを何度も繰り返さなくてはいけないんだと述べておられます。
言い換えれば、今回のいのちでご法義を聞いて、それを捨てることがあったとしても、次のいのち、また次のいのち……どこかでご本願のすくいの網のなかに絡め取られるということです。
ここでひとつの問題点があります。「別序」では「謗る」ということに重点を置いて「謗ってはいけません」と聖人は否定的に述べます。
ところが、「後序」には
もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。
ここでは「疑謗」をご法義を正しく受け取るための「縁」となると肯定的に捉えられています。
結論から申しますと、「別序」の「毀謗」は、「あなたがお念仏を謗ってはいけませんよ」の意味になります、
一方で「後序」の「疑謗」は、「他人がお念仏を謗ることも縁となります」の意味になります。
「信順を因とし、疑謗を縁として」という言葉遣いについて考えてみましょう。
「因」は、そのものの「中」にあるもの。「縁」は「外」にあるものと考えるのが仏教では普通です。
例えば「花」が「果」であれば、「種」が「因」となります。そこに、「水や太陽」といった「縁」があると考えます。
ということは、信順は行者のこころの内にある「内因」であり、他人が念仏を疑って謗ることは「外縁」となるということです。
では、なぜ他者による「疑謗」が「縁」となるのでしょうか。
聖人のお手紙には次のようにあります。
この世のならひにて、念仏をさまたげんことは、かねて仏の説きおかせたまひて候へば、おどろきおぼしめすべからず。
「念仏ひとつで救われる」という教えが弾圧された現状に対して、聖人は「念仏を謗る人が出てくるのは、かねてからお釈迦さまがそうおっしゃっているのだから、別に驚くことはありませんよ」とおっしゃっています。
お念仏を謗る人に出遇ったら、「お釈迦さまの言うとおりだなぁ」といただきなさいということです。
『歎異抄』にも次のようにあります。
故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。
またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。
しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。
あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ(略)」
仏さまはすでに「お念仏の教えを信じる人もいるけれども、謗る人もいる」とおっしゃっています。
自分がお念仏の教えを慶んでいるときに、疑い謗る人間に出会ったのであれば「やっぱり仏さまの教えは正しいのだ」と受けとめるべきです。
もしも反対に、疑い謗る人がいなければ、「仏さまのおっしゃっていたことは間違いではないか」と疑問が出てきます。
つまり、お念仏の教えを謗る人がいるということは、ますます仏さまの教えの正しさを証明することとなります。
だからこそ、「疑謗」の人との出会いは、本願を信じる縁となるのです。
もし、浄土真宗のご法義を否定する人に出会ったとしても、「すでに仏さまが『お念仏を信じる人も、謗る人もいる』とおっしゃっているから、何も問題ありません。むしろ、その人の存在は仏さまの仰せが正しいことを証明している」といただいていくのが私たちなのでしょう。