弱者を責める人、人生に葛藤する人は

弱者を責める人、人生に葛藤する人は

「努力は必ず報われる」と見返りを求める人。

「人生は自分の力で切り開いていくものであって、神仏の力は必要はない」と、無宗教を標榜する人が現代社会には多いのではないでしょうか。
しかし、「宗教」を「人間の理屈を超えた目には見えない力を信じること」と仮に定義するのであれば、無宗教を主張する人のほとんどが「自分の努力は必ず報われる」「私が頑張れば結果はついてくる」といった「努力教」を信仰しているのでしょう。

努力教の信者は、結果を出さない人間に対して「努力が足りないから結果が出ない」「サボっているからダメなんだ」と評価を下します。
例えば、「真面目な良い子は問題を起こさない」と、今の世の中では信じられています。すると、登校拒否した子どもは「真面目ではないし、悪い子だ」と言われます。
会社でリストラに遭った人は「きっと真面目に仕事をしていなかったからだ。能力がないからだ」と見られてしまいます。

このような見方は、あくまで努力教の信者による価値判断を基準とした見方でしかありません。
その一方で、世の中の常識はいつでも結果を出した強い側、声の大きい側の人間が作っています。今の世の中に努力教が蔓延しているのはそのためです。

しかし、「自分の努力は必ず報われる」「私が頑張れば必ず結果はついてくる」という考え方は、論理的な根拠はなく、普遍的真実ではありません。
なぜなら、世の中にはどれだけ頑張っても結果が出ない現実や、自分の力では乗り越えられない壁が多く存在します。

結果が出ないことで苦しんでいる人に対して「あなたが頑張らないから悪い」と追い打ちをかける今の努力教が蔓延した社会のあり方は恐ろしいです。
実際には努力が報われるとは限りません。頑張っても結果が出ないこともあります。
仏教では「世の中は自分の思い通りにならない」ことを説きます。それが私たちの世界の真実のすがたです。
結果を出した人も、そうでない人も、たまたまそのようなご縁に出会っただけに過ぎません。
そもそも、結果の「良い」「悪い」の価値も時代・人・社会など環境によって千差万別です。

もちろん、自分が強い側、賢い側である内は努力教も悪くないのでしょう。
ですが、遅かれ早かれ人間は必ず自分の限界に打ち砕かれ、どうにもならない自身の弱さや脆さを突きつけられる日がやってきます。
その時に「結果を出せる強くて頑張れる人間に価値がある」という信仰や価値観しかなければ、そこにもう自分の居場所はありません。
真実の宗教とは、その弱い私が居場所を授けられる世界を説きます。

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2018年05月01日