甘いレモン

すっぱい葡萄」という話は、仏教の「求不得苦(ぐふとっく)」とリンクするように思います。


世の中のすべては思い通りになりません。その代表のひとつが「求めても得られない」という現実。
そこで生じた苦悩をなんとかしようと、「得られないものに価値はない」と受け止めるのが「合理化」です。


また、裏を返せば「求めていないものを得る」といった思い通りにならない現実もあります。仏教では「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」が近いかも知れません。
求めていない心身を得ているからこそ、苦しみは消えることがない……と考えることができます。


「欲しくないのに手元にある」ことでも苦悩は生じます。すると、同じように起きる「合理化」。こちらは「すっぱい葡萄」に対して、「甘い檸檬(れもん)」と呼ばれます。
といっても『狐と葡萄』のような物語があるわけではなく、「どんなにすっぱいレモン(受け入れがたい事実や辛い経験)だろうが、自分のものである限りは甘い(価値のあるものだ)と思い込むことで安心を得る」という心理を言い表したものです。


私は高校時代に自転車競技の関東大会に東京都代表として出場しました。
しかし、結果は振るわず……負けた悔しさや実力不足を棚に上げて「自分は十分にやった。どうせ全国では通用しないから行けなくて良かった」と考えました。
自分の手元にある「敗北」という事実を酸っぱいものではなく甘いものだと思い込むことで心の平穏に繋げたのでしょう。


「自分は苦労している」「大変だ」と必要以上に語るのも、深層心理では大したことがないと知っている自分の業績を、あえて高く評価することで安心を得る行為です。

私たちは誰もが自分の行動や人生を意味のあるものだと考えて生きています。
欲しくても手に入らないもの・いらないのに手元にあるものであっても、意味づけをすることによって心のバランスをとっていることを教えるのが「すっぱい葡萄」「甘い檸檬」です。

大切なのは「合理化」が良い・悪いではなく、私たちの心にはそうした仕組みがあり、人間はそういう生き物だ──ということではないでしょうか。

合掌

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2018年04月10日