昨日に引き続き次の言葉について、少し考えました。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
本願寺出版社から出ている現代語訳本には次のように書かれています。
本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。
あらゆる功徳をそなえた名号は、宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない。
阿弥陀如来の慈悲を受け取った人が「この仏さまに出遇うことがなければ、私の人生はむなしく過ぎていたことだろう」と味わう心が述べられているので、大切なのは「むなしい人生」ということではありません。
浄土真宗での地獄の受け止め方にも似ているように思います。
お酒を飲まない人に対して、お酒を好きな人が「お酒を飲まない人生はむなしいよ」と言っても、言われた側は「はぁ、そうですか」といった具合です。
でも、言った側にとっては「お酒を飲まない人生はむなしい」ということは事実なのかも知れません。それは本人だけにしか分からない世界です。
知り合いに質問をされたことがきっかけで、そんなことを最近になって改めて考えていました。浄土真宗の勉強をはじめて数年が経ちましたが、その奥の深さは計り知ることができません。
合掌