昨年と同じく隆照寺さまへ寄せていただきました。
主催している『歎異抄』勉強会で学んだ「悪人正機」についてお話しする予定でしたが、ご住職から
「今日で最後のお聴聞になるかもしれない人がお参りしています」
とご報告があったので「往生浄土」のお話に変更しました。
終了後、参加者の方から質問がありました。
「私は人生のどうしようもない苦しみや挫折を通して、浄土真宗の教えに出遇いました。
お話の中でも『元気で自分の力で人生が思い通りになると思っている時は、浄土や阿弥陀如来と言われても絵空事になるかもしれません。しかし、人間は決してそうではなく……』とありましたが、浄土真宗の若い僧侶の人たちはどうして仏さまを喜ぶことができるのですか?」
以前、西原祐治先生が法話で「浄土真宗は苦しみを通してしか出遇うことができない」とおっしゃっていました。
確かにどうにもならない苦しみは、年齢を重ねてからの方が多いことは間違いありません。
しかし、若い人間が人生の挫折を経験することがないかといえば、そうではないのです。
幼い子どもや学生も例外なく「苦悩の有情」であります。
一方で、若く元気で人生の順調な人が浄土真宗の教えを正しく聞けないのも事実です。
去年、参加した研修会で「京都・西本願寺の法座の参詣者が著しく減っている」と先生がおっしゃっていました。
「浄土真宗は言われるまでもなくお聴聞を大切にする宗教です。
近くに西本願寺という大きなお寺があるのですから、まずはそこで働く大勢の僧侶・職員へ参拝奨励をしてはいかがでしょうか」
と参加者から意見がありました。すると先生が
「西本願寺のような大きな組織で上手に立ち回ることができる人や器用に賢く生きられる人が弱者の宗教であえる浄土真宗のご法義に遇うのは難しいのではないか」
とおっしゃっていたのが印象的に残っています。私はそんなことないと思いますが……。