鈍感でない文章となると、その終極点はたぶんリズム(内旋律)の問題になるでしょう。
本多勝一氏の作文技法の本に書いてあった一節です。
文章のリズムとはなんでしょうか。次の文章を声に出してor心の中で読んでみてください。
小さい白いニワトリが、小麦の種を持ってきて、みんなに向かって言いました。
「誰が種を蒔きますか?」
ブタは「イヤだ」と言いました。イヌも「イヤだ」と言いました。ネコも「イヤ」だと言いました。
小さい白いニワトリは、ひとりで種を蒔きました。
内容はともかく、小気味よく、口ずさみやすいリズムを持った文章です。
法則を調べてみると、6~8文字と5文字の繰り返しになっています。
五月雨(さみだれ)を 集めてはやし 最上川(もがみがわ)
俳句(5・7・5)や、
花は根に 鳥は古巣に 帰るなり 春のとまりを 知る人ぞなき
短歌(5・7・5・7・7)、
散切(ざんぎ)り頭を 叩いてみれば 文明開化の 音がする
都々逸(7・7・7・5)など、日本人にはお馴染みのリズムです。
試しに俳句を楽譜に当てはめてみました。私たちが普段から親しんでいる8拍子にしっかり収まります。
汚れつちまつた 悲しみに
今日も小雪の 降りかかる
汚れつちまつた 悲しみに
今日も風さへ 吹きすぎる
名文と呼ばれるものは、必ずリズムをもっています。
少し前に読んだ本にも「文章は内容ではなくリズムで読ませる」「(名文は)文章に音楽が流れている」とありました。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人も、リズムを大切にしていました。
弥陀の名号 となへつつ
信心まことに うるひとは
憶念の心(しん) つねにして
仏恩(ぶっとん)報ずる おもひあり
7・5の今様(いまよう)形式で整えられた『和讃』を500首以上も残しています。
口ずさみやすく、身体に馴染みやすく、覚えやすいだけではなく、宗教的な情操を高める効果もあるのでしょう。
お経のなかでも、ポイントとなる場所には字数を揃えて韻律を整えた「偈文(げもん|漢讃)」の形式が採用されています。
もともと、インドでは口伝でお経を共有していたため、暗記のしやすさも重視されていたと思われます。
今まで逃げたる 私(わたくし)を
逃がし給(たま)わぬ 阿弥陀のお慈悲
罪悪深重(ざいあくじんじゅう)も 障(さわ)りにならず
助けてくださる 阿弥陀のお慈悲
罪が重いと 苦に病むな
抱(だ)いて抱(かか)える 阿弥陀のお慈悲
信ずる一念 待ちかねて
救ってくださる 阿弥陀のお慈悲
口からこぼれる 六字の称名
これも回向の 阿弥陀のお慈悲
お慈悲お慈悲と 喜ぶことも
これもやっぱり 阿弥陀のお慈悲
古いお説教の本を読むと、やはり肝要となる結びの部分はリズムがきっちりとしています。
一座のお説教の締めくくりにあたり、感動的なフィナーレを演出し、宗教的な情操を煽る効果が期待できます。
今から9年前に『拝読 浄土真宗のみ教え』が発刊されました。冒頭に「浄土真宗のすくいのよろこび」と題した次のような文章が掲載されています。
阿弥陀如来の 本願は
「かならず救う まかせよ」と
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の み名となり
たえず私に よびかけます
このよび声を 聞きひらき
如来の救いに まかすとき
永遠(とわ)に消えない ともしびが
私の心に ともります
如来の大悲に 生かされて
御恩報謝の よろこびに
南無阿弥陀仏を 称(とな)えつつ
真実(まこと)の道を あゆみます
この世の縁の 尽きるとき
如来の浄土に 生まれては
さとりの智慧を いただいて
あらゆるいのちを 救います
宗祖親鸞 聖人が
如来の真実(まこと)を 示された
浄土真宗の み教えを
ともによろこび ひろめます
和讃と同じく7・5調です。西本願寺の常例布教では、最初にみんなで拝読します。
私事ではありますが……学生時代はずっとバンドを組んで、ドラムやパーカッションに熱中していました。今でも音楽を聞くときには、ベースやドラムといった「リズム隊」に注目します。
今後は培ったリズム感を法話や文章にも生かしていこうと思います。
合掌