出版社に勤務していたときに、「文章は書くものではありません。読んでもらうためのものです。伝えるためのものです」と何度も言われました。
ある本を読んでいたら、次のような話が紹介されていました。
フランスの詩人アンドレ・ブルトンがニューヨークに住んでいたときのことです。いつも通る街角に黒メガネの物乞いがいました。首に下げた札には、
私は目が見えません
彼の前には施しを受けるためのお椀が置いてあります。ところが、通行人はみんな素通り。コインがお椀に入ることはほとんどありませんでした。
ある日、ブルトンは
「その下げ札の言葉を変えてみたらどうか」
と話しかけました。
「はぁ、じゃあ、お任せします」
ブルトンは新しい言葉を書きました。
──それからというもの、お椀にはコインの雨が降り注ぎ、通行人たちは同情の言葉をかけていくようになりました。
物乞いにもコインの音や優しい声が聞こえます。
数日後、物乞いはブルトンに尋ねます。
「すみません、なんて書いてくださったのですか?」
春はまもなくやってきます。
でも、私はそれを見ることができません。
誰が見てもうらぶれた物乞いです。黒いメガネをかけているので、盲人であることもみんな分かります。
「わたしは目が見えません」は言葉の意味をなしていないのです。
アンドレ・ブルトンが書き直した言葉には、訴えるものがあり、憐れみを乞う力があり、人に行動を促す力……えげつなく言えば集金能力がありました。
しかし、目的はそこにあります。読んでもらって、施しの気持ちを起こさせ、施しをいただくこと。
目的を果たしてこそ、言葉です。
浄土真宗は「言葉の宗教」といわれます。真実法を取り次ぐ立場にある僧侶たちも、仏さまが目的を果たすのを妨げない言葉を選ぶことが大切なのでしょう。
合掌