先月に横須賀にある親戚のお寺へお参りしたときのことです。
稱名寺の坊守の従兄弟であるご住職と食事をしながら、いろいろとお話をしました。
これからの法話について、ご住職から「江戸時代の法話形態を復活するのはどうか」とご提案がありました。
昨今の布教は「暗記した法話を語る」よりも、「自らの言葉で語る」ことが重視されています。
ところが、明治から昭和初期の説教本を見てみると、法話が晨朝・日中・逮夜、並びに各前後席など短くテーマに区切られて掲載するものが多くあります。
当時の若い布教使は、説教本を参考にして熟練者の一語一句を暗記していたのでしょう。
完成された法話は、初心者にも聞きやすい配慮がなされています。
現代法話の伝統に加えて、暗記法話も復活させてみてはどうか──。
「ふんふん」と話を聞きながら、「本来、法話はそうあるべきかもしれないなぁ」と感じました。
昔、ある役者が有名布教使の法話を、内容から立ち振る舞い、間の取り方から声色までを完璧にコピーして演じ切ったことがあったそうです。
僧侶ではない人が僧侶を演じたとしても仏法は伝わるのか……結果、聞き手はみんな「なんまんだぶ」とお念仏を申してご法義を喜んだといいます。
つまり、「話し手が僧侶の資格を持っているかどうか」「どれだけ勉強してきたか」以前に、語られている仏法や、それを伝える語り口や技術、雰囲気が布教において大切な要素かもしれません。
もちろん、個性や人柄といった独自性も大切なことでしょう。
一方で、「素晴らしいもの」を「素晴らしいまま」に取り次いでいく「如是我聞」の姿勢は仏教者として大切なものです。
個を尊重する西洋思想が強くなっている現代の日本においては、「人の話や話しぶりをコピーすることはかっこ悪い」「他の人に真似ができない方が素晴らしい」と考える人が圧倒的に多いので、この手法はなかなか受け容れにくいかもしれません。
落語の世界は同じネタ・台本であっても、話し手のテンポや間によってまったく聞こえ方が違います。
個性は放っておいても勝手に出てくるものです。
現代の布教にも江戸時代の法話形態のように、定番のネタや構成を原稿・台本化して受け継いでいく「暗記法話」があっていもいいのではないでしょうか。
僧侶の本分は「自分を売ること」ではなく「ご法義を伝えること」と考えれば、センスのある売れっ子だけを少数精鋭として扱う現状よりも、平均値の底上げをめざすべきです。
「個性を潰して金太郎飴みたいな布教使を増やしてどうするの」といった批判もあるでしょうが、質が高くて美味しければ金太郎飴だって構わないはず。
「ご法義が伝わる仕組みは私たちに計り知れない」は百も承知の上で、そんなことを改めて考えさせられました。
ということで、ご住職から名布教使の法話アーカイブをお借りすることに。
多くの人たちに慶ばれた名人の布教を聞き重ねて、仏法相続の礎を築いていきたいものです。