東京教区布教団の総会が開催されました。
引き続き研修会です。
ご講師は布教研究課程専任講師の深水健司先生。
三宮義信先生の著書から次の文章をご紹介くださいました。
「話術や話法、声の高低などは二の次で、布教内容さえしっかりしていたらそれでよい。
布教使は芸人ではないから、話術などに拘泥(こうでい)することは邪道である」
という考え方をする人もあるが、それは大きな間違いである。
この「布教使は芸人ではない」という考えには、布教使の憍慢が見え隠れしている。
残念ながら血の出るような訓練をしているのは、布教使より芸人といわれる人たちである。
芸人は芸ができなければ舞台に立てない。
舞台に立たなければ生活ができない。
つまり生活がかかっている。
布教使も本来はそうではなくてはならない。
布教使に、聴衆から期待されるような布教ができなければ、聴衆は聞いてくれない、
聴衆が聞いてくれなければ生活にさし支えてくる程の状況下に置かれたら、われわれ布教使はもっと布教の修練を積むであろうし、勉強もするであろう。
しかし現実はそうではなく、布教使の話の内容のいかんにかかわらず、同行は聴聞してくれる。
真宗の同行は仏法を聴き慣れている。
仏法を大切にしてくれる。
それを、布教使は自分の話の内容が良かったから聞いてくれたと錯覚して訓練を怠ってしまうのである。
聞き手にどうしても本願他力の教えを伝えねばならない、伝えずにはいられないという情熱、そしてきっと伝えてみせるという信念があれば、どうしたら正しく伝えることができるだろうかという、話術や話し方の工夫が当然生まれてくるはずである。
わけのわからない専門用語の多用も避けるはずである。
情熱と信念に乏しいから、話術や話し方を軽視する結果となる。
話術のための話術ではなく、仏法を正しく伝えることを目的とする話術である。
布教の内容、話術などのすべてがととのってこそ本当の布教となる。
法を相手に伝えずにはいられないという熱意の厚薄(こうはく)によって、話しぶりも自ずから変わってくる。
布教使として、浄土真宗の僧侶として当たり前のことかもしれませんが、ガツンと響く文章です。ぐうの音も出ません。
情熱と信念は人に言われて培われるものではないものの、少なくともお聖教の勉強や話術の向上につとめている人は情熱や信念を持った人でしょう。
そういう人たちが増えることこそ、浄土真宗の伝道布教の近道であることは間違いありません。
ちなみにこの本はアマゾンで約25万円の値がついていました。
稱名寺の書斎でも見かけた気がするので、帰宅後によく探してみると……
新品がありました。25万円でお譲りします(嘘です)。
また追って内容をご紹介します。