雑草という名前の草はない
害虫という名前の虫はいない
「もしも今、あなたの目の前にある川で大切な人がふたり……例えば、『奥さん』と『お母さん』が溺れていたら、どちらを先に助けますか?」
お坊さんからの質問に対して、聴衆は口々に「奥さん」「お母さん」と答えます。
ところが、なかなか意見はまとまらず、結論が出ません。
「ちなみに、お坊さんはどう考えているんですか?」
「私は仏さまに仕えていますから、仏さまの目線を大切にしています」
「じゃあ、仏さまだったら、どちらを先に助けるんですか?」
「それは……近い方を先に助けるでしょう」
仏さまのものの見方は私たちとは異なります。「奥さんだから」「お母さんだから」と、「○○だから」のレッテルを貼って優先順位を決めません。
だからこそ、お坊さんは「近い方から助ける」と答えたのです。
しかし、私たちは仏さまとは違い、いつでもレッテルを貼り、点数や順位をつけながら世の中を見ています。
「若者と老人」「健康な人と病人」「強い人と弱い人」「役に立つものと役に立たないもの」
これは裏を返せば、自分自身も周りに点数や順位をつけられているということです。
自分が順位の高い立派な人間だと思っている内はそれでいいかもしれません。
ですが、人間は自分の弱さや脆さにぶつかる日が必ずやってきます。
そのときに「結果を出した人間でなければ認められない」「弱い人間や愚かな人間ではダメだ」という見方や価値観しかなければ、私たちは前を向いて生きていくことができなくなってしまいます。
浄土真宗の仏さまである阿弥陀如来は、単にレッテルを貼らずに近くのものから救う仏さまではありません。
余力が残っている人は後回し。もがき苦しみ、今にも溺れて沈みそうなものから救う仏さまです。
「愚さや弱さを抱えずには生きていくことができないあなたを決して見捨てない仏が、いま南無阿弥陀仏のお念仏となって届いていますよ。あなたはひとりではありません。ともに生きる仏がいます」
私のいのちに優劣をつけることがない仏さまに出遇うとき、弱い私が、弱いままに生きていくことができる道が開かれます。