今年も桜の季節を迎えました。
日本人は昔から桜に対してある種の特別な感情を抱いてきた歴史があります。
満開に咲いた桜の美しさや華やかさへの感動もさることながら、桜の散り際の儚さや物悲しさに無常やわびさびを感じます。
仏教には【諸行無常(しょぎょうむじょう)】という言葉があります。
これは「世の中のありとあらゆるものはすべて移り変わってゆく」という意味で、仏教の根本となる教えのひとつです。
無常について語るときに、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
という『方丈記』の一節が引き合いに出されます。
「人も栖も、水の上に浮かぶ泡のようにはかないもの」という無常のとらえ方は、大きな共感を与えてきました。
しかし、この感覚は川岸の上から見ている感覚で、自分がそこには入っていません。
自らが無常の真っ只中の泡沫であるとの自覚に立った時、私の生き方に仏法が大きな意味をもたらすのです。
私たちは他人には目が向きますが、なかなか自分をありのままに見ることができません。
変わることがないと思っている私自身が、実際には刻一刻と確実に変化を重ね、やがては死を迎えていく。
「世界のあらゆるものの本当のすがたは、絶えず変わり続けている」という真実を、お釈迦さまが示してくださったのが【諸行無常】です。
仏教の出発点はここにあります。