失敗は自分を知るために必要な材料である

深刻な事件が頻発する昨今、「阿弥陀如来の救いの目当ては悪人である(悪人正機)」と説く浄土真宗では、「重大な犯罪者でも救われるのでしょうか?」と聞かれることがあります。

ここでは直接の答えは控えますが、こうした疑問が出るのは「救い」「救われる」という言葉の受け取り方に問題があるのではないでしょうか。

「救い」とは、良いことをした人がご褒美をもらう……と考えると、悪いことをした人にご褒美が出るのは納得ができません。

しかし、「救い」について「道に迷った人を救う」「病気の人を救う」と考えると、やはり深刻な人ほど、急いで救わなければならないでしょう。

大事なところは、私自身が問題・課題になっているかどうかです。

人間として生きるということは、一生涯では成し尽くすことのできない大きな仕事を与えられ、さまざまな失敗を重ねてゆくことです。

仕事の出来、成果だけで人間を評価されたのでは、自身を持って生きられる人はわずかになってしまいます。

たとえ、他の人と比べていくらかはマシだと言えたとしても、仏さまの前で「私は仏さまのような正しい人生を歩んでいる」と言える人はどれだけいるのでしょうか。

「迷い続け、失敗を重ねてきたあなたが救いの目当てである」とおっしゃってくださるから、阿弥陀如来の慈悲が私の救いとなるのです。

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2019年07月01日