「幸せ」とは主観的なものです。何が幸せかは人それぞれによって違って当たり前で、正解はありません。
一方で、ひとりの人間の中で「幸せ」というときには段階があると感じます。
根本にあるのは、「日々の食事」「雨露をしのぐ住まい」「寒さ・暑さから身を守る衣服」など最低限の衣食住が整っている幸せです。
つまり、生きていける環境が第一段階としての基礎的な幸せでしょう。
しかし、人間の欲はその段階ではおさまりません。「もう少しゆとりを持って暮らしたい」「ささやかでも欲しいものを手に入れたい」「気の合う家族や友人と一緒の時間を過ごしたい」「健康で長生きしたい」という幸せを望むようになります。
この世の幸せは大事なことで、日本人が昔から神社仏閣にお参りし、家内安全や無病息災、あるいは家運隆昌、家業繁栄などをお祈りしてきた気持ちはわかります。
「争いごとのない平和で豊かな暮らしがしたい」「健康で長生きしたい」ということは、日本人だけではなく、人類に共通する幸せです。ところが、この世ではなかなか実現しません。
世界に目を向ければ、戦火に住む家を追われ、今日の食べるものさえ手にできずに苦しんでいる人たちが大勢います。
最低限の基礎的な幸せすら望めない人びとからすれば、平和で食べ物が溢れ返る日本は幸せな国に見えるかもしれません。ですが、日本人は自分を幸せだと思っているのでしょうか。
ただ、物質や環境が十分でなくても、精神的な幸せによってこころ豊かに暮らせるという幸せもあります。
金銭的に豊かではないが、本を読むのが楽しみであるとか、荒地に生える名も知らぬ花を見てこころが和むとかです。
病気のため、健康や長生きなど身体的な幸せは直接望めなくとも、わが子の成長を見ているだけで「ああ、幸せだなあ」と感じる人もいることでしょう。そうした精神的な幸せも大切ではないかと思います。
人間は、自分が幸せになってよい思いをしたいとする面と、人類としてお互い仲良く、助け合って生きていきたいとする面の両方を持っているように思います。
自分が幸せであっても、周囲に苦しむ人がいれば、ほんとうの意味で幸せとは言えません。
しかし、平和で物心ともゆとりのあるときは、他人のために何かしてあげようと思えても、明日の食べ物にさえ困るような深刻な事態になれば、他人のことまで考えられないのが実際のところでしょう。
生物は基本的に自分が幸せで長生きしたいと思っているわけで、両立しないときには、第一義的には自分のほうを優先するのが、人間にかぎらず、生きもののごく自然な姿ではないかと思います。
ですから、自然のままに任せれば、自分さえ幸せになればよいとする考えばかりが蔓延し、人や国、民族の間の対立を引き起こすことにつながりかねません。
自覚的に、みんなが助けあって一緒に幸せに生きていけるような、自他ともにこころ豊かに生きられる社会を築いていく道を考えるべきではないでしょうか。