人間はいつのころから苦しみや悲しみを知ったのでしょうか?
苦しみや悲しみという思いを心に抱き、あるいは生きることの意味を問いはじめたそのときに、後に宗教や哲学といわれるようになる人間の精神的な営みがはじまったのでしょう。
人知を超えた存在に請い願い、また生きることの意味を問い、幸せを求め続けてきたという点で、宗教と哲学とは本来、別々のものではなかったはずです。
そしてその営みは人類の遺産であり叡智ともなってきました。
この世界で生きていると、楽しいことやうれしいことばかりではなく、悲しいことや辛いことが誰にでも間違いなくやってきます。
家族や友人にも相談できず、どうしようもない苦悩にさいなまれ“生きている”ことそのことに耐えられそうにないときもあるでしょう。
あるいは、ふと立ち止まって生きていることの意味を問うたとき、何ともいえない虚しさにおそわれることもあります。
そんなとき本当に大切なことは、人生でどんなに悲しく辛いことがあろうと、いかなる苦難がやってこようと、それに振りまわされることのない依りどころを持つことです。
ありのままの自分を見つめ、明日からの一歩を踏み出そうとするとき、絶対に揺らぐことのない安心感を与えてくれる。
そのような依りどころを身につけることこそ必要なのです。
浄土真宗の救いを「摂取不捨」という言葉で表すことがあります。
「摂取」とは仏さまが自分の懐の中に、慈悲の手の中に摂め取って、捨てない、見放さない、ということです。
それは「どんなに辛く悲しい状況に置かれようとも、私はあなたを決して見放さない」という仏さまのこころそのものを表した言葉です。
地球の引力や磁石の力と同じように、たとえ肉眼には見えなくとも、どんなときにも私たちに注がれている力があるのです。
私たちはそんな力(はたらき)の中で生かされています。