「有り難う」の反対は「当たり前」

新型コロナウイルス感染症の影響が長引くにつれ、これまで通りの生活が送れなくなり、先行きへの不安が大きくなっている方が多いのではないでしょうか。

しかし、かつてあなたが「見えている」と思っていた「先行き」は、本当に確かなものだったのでしょうか。
世の中には、自分の力だけではどうにもならないことがたくさんあります。

本来、将来は誰にも予測できない不確かなものであるにもかかわらず、目の前の事実を「これは確実なもの」と思い込んで頼りにしていると、予想外の出来事が起こったとき、「思い通りにならない」と絶望や不安を覚えるのです。
私たちの抱える苦しみは、いつでも「思い通りにならない」ことを「思い通りにしようとする」ことで生じます。

思えば、いままで「当たり前」だと思って過ごしていた日常は、「有ることが難しい」「有り難い」貴重な毎日だったのではないでしょうか。
また、自粛生活を経験してみて、これまで私たちがほんの少し出歩くだけで、いかに多くの人と接触し、つながりを持って暮らしていたかをお知りになったと思います。
そういう気づきこそが、仏教的な視点から出てくるものです。

朝起きて仕事に出かけていく。いろいろな人と交流する。休日には自由に外出できる。桜が咲けばお花見に行き、ゴールデンウィークやお盆休みを利用して故郷に帰省できる……自粛生活中にできなかったこれらのことは、本来すべてが当たり前ではなく、「有り難い」ことだったのです。
外出すれば 路傍の花が、いまのあなたには美しく見えるでしょう。

このように、これまでは当たり前と思い、なおざりにしてきた一つひとつを見直していく価値観の転換が、いまこそ求められます。

新型コロナウイルス感染症では、自覚症状がないのに人に感染させるという危険があります。
このことから、無自覚に感染させてしまうことを恐れ、親しい人と会うことを控えている方もおられるでしょう。
いろいろな地域の産物が、自粛生活で売れなくて困っているとニュースで聞けば、できるだけ購入して応援したいと思われた方もおられると思います。
これらは、自分の都合だけではなく、他人を思う、人と人とのつながりを思う大切な機会です。

お釈迦さまの言葉を記した『ダンマパダ( 法句経)』という経典に次のような言葉があります。

まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する。
(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』p.11・岩波文庫 1978年)

この先、どんな出来事に直面しても、あなたは仏教の教える「まこと(真実)」と向き合っていくように努められてはどうでしょう

確実なものだと思い込んでいる先行き、こういうものだと思い込んでいる人生のひな型は、あくまでも主観的な願望の混ざった予想でしかなく、これらが大きく揺らぐ出来事が起こったとき、むしろあなたに余計な苦しみや不安をもたらす原因になりかねません。

一度得たものを手放すのは辛いと思われるかもしれません。たとえば仕事を失ってしまうこともあるでしょう。そのために自分の存在価値が薄れてしまったように感じる方がいるかもしれません。

しかし、役に立つかどうか、裕福かどうかは、「こうでなくてはならない」という社会や自分の基準、人と比べてどうかという基準でしかないのです。
どのような境遇に陥っても、私たちを救おうとはたらいてくださる仏さまの「まこと(真実)」の基準は、あなたのありのままの毎日を照らしてくださる──このことを仏教は教えているのです。

先月の言葉

翌月の言葉

今月の言葉一覧

2021年10月01日