「自分が死んだらどうなるのだろう」「亡くなったあの人はどうしているのだろう」。
誰もがこうした死後への問いを経験したことがあるのではないでしょうか。
そして、この問いは、私たちの「死」に対する向き合い方と密接に関わっているように思います。
たとえば、「人が死ねばすべてが終わりである。死んだあとは関係ない」と考えるのであれば、「死後」はそれほど意識されず、日々の生活をどれほど充実させるかに重きが置かれると思います。
逆に「人は『死』を経過して新たな世界に生まれ変わる」と考えるのであれば「死んだあとのこと」に不安を抱くことは少ないでしょう。
そして、こうした考えを持つ方々が一般的に「宗教的な人」と考えられています。
これは親鸞聖人も同じです。親鸞聖人のお手紙(「親鸞聖人御消息」)に次のような言葉があります。
この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。
【訳文】私は、今はもうすっかり年老いてしまい、きっとあなたより先に往生するでしょうから、浄土で必ずあなたをお待ちしております。
「すっかり年老いてしまい」とあるように、親鸞聖人最晩年のころのお手紙だと考えられます。
この中で「浄土で必ずあなたをお待ちしております」と仰っています。
このことから親鸞聖人はご自身が亡くなれば、間違いなく浄土に往生し、その浄土では先に亡くなったもの、あとに亡くなるものと「また会える」と考えられていたことがわかります。
ですから、「死んだらどうなるのか」という問いに対して、親鸞聖人なら「浄土に往生させていただく」と間違いなく答えられるでしょう。
このうえでもう一つお伝えしたいのは、このような問いが起きることこそが私たちにとって大事なのではないか、ということです。
親鸞聖人が二十年間に及ぶ比叡山での修行の末、比叡山を下りられ、法然聖人のところへ赴かれたことについて、妻・恵信尼さまのお手紙(「恵信尼消息」)には次のようにあります。
ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを
【訳文】 ただ来世の救いについては、善人にも悪人にも同じように、迷いの世界を離れることのできる道を、ただひとすじに仰せになっていた法然聖人のお言葉をお聞きして
親鸞聖人が求められたのは「生死出づべき道」、つまり「迷いの世界を離れることのできる道」です。
「迷いの世界」とは、私たちが生きているこの世界のことです。私たちは常に自己中心的な心で物事をとらえてしまい、その心に振りまわされ、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんでいます。
こうした心で「死」をとらえるとき、誰にも避けることができないことでありながら、「死」は嫌悪され、忌避されるでしょう。
対して「死」を受けいれるという道があります。それが「生死出づべき道」であり、誰もが歩んでいける浄土への道なのです。
現代において「死んだらどうなるのか」という問いに直面している方々には、辛い状況に置かれている方も多いかと思います。
こうした問いもなく生きていくほうが楽だとお思いの方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、こうした問いに向き合わざるを得ないのが私たちではないでしょうか。
だからこそ、「生死出づべき道」を求められた親鸞聖人のお言葉、浄土真宗のみ教えをお聞きいただきたいと思います。