布施の話

以前、先輩が紹介していた佐々木閑先生の『日々是修行』からエピソードをひとつご紹介します。

先日テレビで、あるタレントがこんな笑い話を披露していた。
「タイに、民衆から生き仏のように尊敬されているお坊さんがいて、番組の取材で会いに行ったんだけど、食事中だということで、どんな立派な精進料理を食べているのかちょっとのぞいたら、ハンバーガーを食べてシェイクを飲んでいました」
生き仏がハンバーガーを食べている様子は、確かに面白い。私もつい笑ってしまったが、そのあと、「見ている人たちが、変に誤解しなければいいけれど」と心配になった。
出家したお坊さんというのは、普通の人とは違う。どこが違うかというと、仕事をしないのである。一切の仕事をやめて、人生のすべての時間とエネルギーを、修行というただ一つの目標に使う。それが僧侶の生きる道である。
しかし仕事をしないということは、食べて行く方法がないということだ。毎日毎日坐っていたら餓死してしまう。
そこで仕方がないので、毎朝、近くの町や村へ行き、人々の食べ残しをもらって、それで命を繋ぐ。いわゆる托鉢(たくはつ)である。そしてその、人からわけてもらう食べ残し、それをお布施というのである。
食べ残しだから、そこは肉や魚も入っている。ぜいたくの言える身分ではないから、もらったものはなんでも食べねばならない。
だから、お坊さんはもともと、肉や魚を食べても構わない。それがお釈迦様がきめた仏教本来の生活方法なのである。
この笑い話がおかしいのは、「生き仏という、世にも崇高な人物が、ハンバーガーとシェイクなどという俗っぽいものを頬張っている、そのアンバランス」であり、また「精進料理しか食べないはずの生き仏が、ハンバーガーの肉にかぶりついている、そのインチキ臭さ」にある。
しかしそれはどちらも、笑っている私たちのほうが間違っているのだ。
僧侶とは、本来、「人の食べ残し」という極めて俗っぽいもので命を繋ぐ存在である。そして、肉でも魚でも、人様がくださった物はなんでもありがたく受け取って食べる、謙虚な存在でもあるのだ。だから、この生き仏は、全く正しい。
たかだか数百円のハンバーガー。どこかの信者さんからのお布施だろう。質素な食事である。それをありがたく頬張って、黙々と修行に励む。これこそ立派な出家者の姿。わざわざ作った立派な高級精進料理など、僧侶にはふさわしくないのだ。僧侶の偉さは、「どれだけ真剣に修行生活を送っているか」、その一点で決まる。
修行も勉強もせず、ボーッとしているだけでお布施がもらえると思っているようなお坊さんを見たら、この生き仏様、「そりゃなんじゃ」と大笑いするに違いない。

合掌

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2019年05月17日