殺生の話

引き続き、佐々木閑先生の『日々是修行』から「殺生」に関するエピソードをご紹介します。

私はお釈迦様が大好きで、その教えにすっかり惚れ込んでいるが、だからといって、その教えがすべて正しいとは思っていない。

「この世に超越者などいない」
「その、救いのない世界で我々は苦しみ続ける」
「苦しみを逃れる手立ては、修行による自己の向上しかない」

──これが仏教の基本である。超越者はいないというのだから、釈迦自身も超越者ではない。私たちの人生の師匠であるが、あくまで生身の人である。だから、現代から見れば納得のできないこともたくさん言っている。その代表例が殺生の禁止である。
「殺生するな」と釈迦は言う。「殺している」と思う気持ちが、私たちの精神を劣化させ、苦しみを生み出すからだという。だから修行者は、一切の殺生をやめるように命じられる。当時は、それが可能だと考えられていた。目の前にいる生き物を殺さないよう、気をつけて暮らしていれば、それで殺生は避けられると思っていたのだ。
だが今はどうか。私たちは、古代のインド人よりもはるかに広く、深く、世のありさまを知ってしまった。この世は目には見えない微生物でびっしり覆われている。
せっけんで手を洗えば、何億もの微生物が死ぬ。大根や人参もDNAでつながった生き物だから、一本でも引き抜けば、紛れもない殺生である。
科学の発達は私たちが殺生なしで生きられないことを明らかにした。日々是殺生の私たちは、とうてい釈迦の望んだ生活は送れない。
ではどうするか。基本は、心を劣化させないように努めるという一点にある。殺生せずに生きられないのなら、それはそれとして受け止めよう。生きるために殺すのは仕方がない。教育や文化を護るためにどうしても必要な殺生もある。だが少なくとも、殺しそのものを楽しむ行為はやめる。他者の苦しみを見て喜びが生まれるなら、その人の心は間違いなく劣化していくからである。
食べもしない魚を遊びで釣ったり、害のない動物を娯楽のために殺したり、それはやめる。
自分の心が殺しに慣れていくことだけは、なんとしても防ぐ。これが私の結論である。
全国の釣り愛好家、狩猟愛好家の皆さんには申し訳ないが、釈迦の思いを現代に生かす、これが唯一の方法であろうと考えている。〈佐々木閑『日々是修行』〉

原始仏教は、道徳的で単純明快で私も大好きです。


ところが、自身の仏道とするには難しく……「信じることは易しく、行うことは難しい(易信難行)」と改めて実感します。

合掌

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2019年05月19日