争いは争いをもって止めることはできない ただ忍だけが争いを終息させることができる

(あらそ)いは諍いをもって止めることはできない。

ただ忍(にん)だけが諍いを終息させることができる。

『長寿王経』

9・11同時多発テロ事件以来、報復の連鎖を断ち切ることができずに、世界は混沌としています。
ネットニュースなどでは、怨みを捨てる必要があるとして、

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。『ダンマパダ(法句経)』第一章第五偈

というお釈迦さまの言葉がよく引用されています。

ところが、怨みを捨てることが困難であることは、人類の歴史が物語っています。

『長寿王経』では、報復の連鎖を終わらせるのは「忍(にん)だけ」だと明確に説いています。
この「忍」はサンスクリット語「クシャーンティ」の訳語で、「忍苦(にんく)」や「忍辱(にんにく)」とも漢訳されます。

一般的に「忍」は「しのぶ」と読み、現代では「我慢」の意味に理解しがちです。

しかし、仏教では我慢は「我という慢心」であり、自己中心の身勝手な思いで自己正当化して他者を認めずに批判・否定している姿です。
例えば、我慢に我慢を重ねていると、最後には堪忍袋の緒が切れて、暴力的行為が生じます。
ですから、仏教では「我慢」は否定されています。

私たちの生活は、一見平穏に見えても、それは「我慢」しているだけではないでしょうか。この「我という慢心」こそ争いの原因なのです、
真の平和には、自己中心的な「我慢」ではなく「忍」が必要です。それは相手を認めて許す「寛恕(かんじょ)」であり、智慧に裏付けられた慈悲です。

この「忍」の実践には、まず一人ひとりが自らの身勝手さを知ることが大切です。

とはいえ、私たちは自らの過ちや愚かさを認めるだけでも苦しみます。
さらに、自分と異なる相手を認めることでも苦しみます。
この苦しみの原因は「我執(自己中心性)」という煩悩であると信知することも「忍苦」「忍辱」の内実です。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、仏の智慧に触れて「煩悩成就のわが身の愚かさ」を知らされました。
それと同時に身勝手なわが身を捨てず、倦(う)むことなく、認め許してくださる阿弥陀如来の慈悲の中にいるからなのです。そのことを念仏を申す身の上に慶ばれていたのでしょう・

このような姿こそが、報復の連鎖を断ち切る営みの第一歩だと味わいたいと思います。

〈いのちの栞『自らを知らされる』より〉

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2020年09月01日