若い父親が、幼いわが子の手を引いて道を歩いていたときのことです。
自分がよく注意しなかったのと、子どもがよそ見をしていたため、道路脇に駐車していた自動車に子どもがぶつかってしまい、痛くて泣きだしました。
大人でも、よそ見をしていて電信柱や駐車中の自動車にぶつかる事故はないわけではありません。
たいていは自分の不注意を反省するのですが、この父親は自分の不注意や、よそ見をしていたわが子の態度を棚に上げて、「こんなところに車を停めているのがけしからん」と、自動車のタイヤを蹴飛ばしたというのです。
父親は、自分で取るべき責任(自分の不注意)と、自分以外のところにある原因(この例では駐車している自動車)とを区別することができず、ただそこに置いてあるだけの自動車がまるで自分たち父子を攻撃しているかのようにとらえています。
もし、ぶつかったのが自動車ではなく、道に立ち止まっていた人だとしたら、「こんな道の真ん中に立っているのはけしからん。責任を取れ」と相手を攻撃しかねません。
自分の責任は認めず、何ごとも相手のせいにする流れが、今の世の中に広がりつつあるのではないかと非常に恐ろしく感じます。
その根底には、一度「責任がある」と口にしてしまうと、法律的に次々と責任を負わなくてはならなくなってしまうという問題が、社会の仕組みとしてあるからでしょう。
交通事故はその典型です。
うっかり謝ったら、法律上の責任をすべて負わされてしまうため、なるべく「自分に責任がある」とは言わない。
謝ったら損になると考え、相手に責任を押しつけようとなるのです。
私たちの人生は、目に見える、あるいは目に見えないつながりの中に成り立っており、知らないところでいろいろな人に迷惑をかけて生きています。
その意味で「お互いさま」という昔からの考えは、ある程度社会を和らげてきました。
法律論も大切かもしれませんが、お互いが常に深い反省と謙虚さを忘れずに「お互いさま」という態度で暮らせば、この世はもう少しこころ穏やかに生きられるのではないでしょうか。
〈『人生は価値ある一瞬』〉