人間は死を抱いて生まれ 死をかかえて成長する

あるお坊さんが、「わしの死ぬところをみんなに見せるように」と遺言して亡くなったそうです。

「人間は死ぬのだ」ということを子や孫たちに実地に教育するためでした。

このお坊さんにかぎらず、おじいさん、おばあさんが「人間はこういうふうにして死ぬのだ」と自分の死ぬところを子や孫に体験させるのは、先に逝く者の最期の大事な務めだと私は思っています。

私の父は90歳で亡くなりました。その父の老いて亡くなる姿を目にして、私自身はどう老いていけばよいかなど、老いや死をより具体的に、より深く考えるようになったのです。

このように、生きているときを知っている祖父母や両親などが亡くなるのを目にすることは、子や孫たちにとって、自分のいのちの有限性を考えるいちばんの近道ではないかと思います。

ただ、自宅で看取られることが多かった昔と違い、最近は病院で亡くなるケースがほとんどで、時世とはいえ、祖父母や両親の死を間近に目にしなくなり、若い人がいのちの有限性を意識する機会が減っているのは残念です。

どんなに頑健で病気ひとつせずに生きてきた人でも、いずれは老い、死を迎えます。それは免れようがない真理で、人間はいつ死ぬかわからないから、今このひとときが、今日という一日が大事だとわかるわけです。
もし永遠に死なないとなれば、今日の価値や明日の価値など誰も考えないでしょう。

若い人にとっては、死など遠い遠い先のことに思われ、それを実感するのは難しいといえます。

その意味でも、祖父母や両親の死を目の当たりにしたり、自分が大事に育ててきたペットが死ぬという体験をすることは、いのちの有限性を自覚するのによいきっかけなのです。

死を平生のこととして意識できれば、今のひとときがいかにかけがえのないものであり、二度とない大切な時間であると感ずることができます。今の人生、今のいのちをより充実したものにしよう、よりよいものにしようとなるのでしょう。

年を取って先が短い人の今日一日も、この先の人生が何十年もありそうな若い人の今日一日も、同じように大切な24時間であり、大切な一日だということは、死をきっかけに考えられる非常に重要なテーマです。

平均寿命は80年だとか言われますが、それはすべて統計の話で、自分がどうなるかはまた別の話です。
一応のめやすとなっても、そのとおりに生きられる保証は何もありません。やりたいこと、なすべきことがあるのなら、それに向かって少しずつでも歩き出しましょう。いのちが有限であるなか、ほんとうに大切なことを探して生きるようにしたいものです。

〈『人生は価値ある一瞬』「いのちの有限性の自覚」〉

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2020年07月01日