現代では浄土真宗を含めて、伝統仏教には難しい課題が増えています。
そのひとつが、「仏教とは何か」が曖昧になっていることです。
申すまでもなく、仏教の基本は「私が仏になること」「私がさとりをひらくこと」です。
しかし、今の世の中で「あなたはさとりを求めていますか?」と尋ねられて、「はい」と答える人はどれくらいいらっしゃるでしょうか。
さとりを求めている人がいないのであれば、お寺はいったい何のためにあるのでしょうか。
「先祖供養のための施設」と考えられているのであれば、非常に残念です。
現代的な生活をしていると、「さとりをめざす」と考えることはほとんどありません。
ですが、よくよく考えてみれば、そういった人のために説かれているのが浄土真宗の教えなのです。
「この世界のことは、人間の力で解決すべきである。それが無理なら、ご先祖さまか神さま、仏さまにお願いする」というのが、典型的な日本人の解決方法かもしれません。
ただ、それでは私の人生の問題が解決されず、結局は周りを自分の都合の良いように変えようとしているだけです。
浄土真宗の教えを尋ねることは、阿弥陀如来という仏さまに照らされる私を知るということです。
迷いの人生をおくる私であると知らされると同時に、どんな時であっても、阿弥陀さまが「あなたを決して見捨てません」と喚び支えていてくださると知らされるのです。
阿弥陀さまの光の中でこそ、同じ光に照らされて生きているもの同士が支え合う喜びを得られます。
仏さまの光は目に見えませんが、「南無阿弥陀仏」と言葉となり、「なんまんだぶ」と私のお念仏の声となって響き、私の人生を照らします。
お念仏を申して、ともに歩んで参りましょう。