経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)ふるに鏡のごとし。
しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。
善導大師『観経疏』序分義
「今日、鏡を見ましたか?」と聞かれたら、多くの人は「はい、見ました」と答えるでしょう。
では、続いて「鏡を見てどうでしたか?」と聞かれたら何と答えますか?
突然、「どうでしたか?」と言われても困ってしまいますね。
「別に……普通でした」とか「髪の毛に寝癖が付いていました」と答えるしかありません。
まさか「うちの鏡は四角い形をしていました」と答える人はいないでしょう。
しかし、どちらも鏡を見ていることには違いありません。
「鏡を見る」と「桜を見る」では、同じ「見る」でも意味が違います。
「桜を見る」と言った場合は「桜」そのものを見ます。
一方で「鏡を見る」と言った場合は「鏡」そのものではなく「鏡に映った自分」を見ることを意味します。
実は、「仏教を学ぶ」「仏法を聞く」ということは、「鏡を見る」に近いです。
仏法を聞いたときに「仏さまの教えはこんな教えなのか」と客観的に教えの内容を理解しただけでは、仏法を聞いたとは言えません。
仏法とは、聞けば聞くほど自分の姿が見えてくる教えです。
自分の外見は鏡を見れば分かります。
しかし、自分の内面はそうではありません。
仏法は私の内面をありのままに映し出す鏡なのです。
中国の高僧・善導大師は、著書『観経疏(かんぎょうしょ)』の中で「お経に説かれた仏さまの教え(仏法)は、鏡のようなものです。何度も読み、何度もその心を訊ねるならば、智慧を生み出します」とおっしゃっています。
仏法という鏡に映し出された自分の姿とはどのような姿でしょうか。
真実に目覚めた仏さまの教えによって映し出された不真実である自分の姿とは、自己中心の心から離れられず、煩悩に振り回されている愚かな自分に違いありません。
しかし、自分の愚かさが知らされたといことは、「真実の在り方」「自分のめざすべき方向」が知らされたということでもあります。
つまり、仏法を聞くということは、自らの愚かさが知らされると同時に、自らのめざすべき方向が知らされるということなのです。
なお、「智慧を生み出す」とは、自分が智慧を体得するのではなく、仏さまの智慧のはたらきが届いて真実に導かれる身になるということです。
毎日、仏法という鏡の前に立ちたいものです。
〈いのちの栞『毎日を仏法という鏡に』より〉