人は「いつか死ぬ」ではなく「いつでも死ぬ」

人は、必ずしも年を取ってから死ぬわけではありません。
いつ死ぬのかは誰にもわかりません。
世の中には、ある程度長生きをされた方の死は「よかった」「大往生」、子どもや若くして亡くなられた人には「早すぎる」、あるいは「本人も無念だったろう」という言い方をする人がいらっしゃいます。

ですが、それは間違いです。
いのちの価値は、長い短いというものさしだけでは決してはかることができません。

最も大切なことは、そのいのちが終わったときに本人にとって、あるいは本人の親しい家族の方から見て「精いっぱい生きたいのちだったかどうか」ということです。

世間一般では亡くなった人を評価できるものが「いのちの長短」や「お金」、「名誉」、「地位」であることが多いです。
しかし、実際に亡くなった人の立場に立ったときに、そういうものでしか自分を評価してもらえないのは寂しいでしょう。
いのちがなくなる瞬間に「よかったな」と思える人生ではありません。

少なくとも死を迎えるときに、自分が「いままでの人生は素晴らしいものであった」と思えるような生き方、みなさんに「ありがとう」と言って終えられるような人生でありたいものです。

そもそも「自分の死」というのは、今日かもしれないし、明日かもしれません。
縁起が悪いと思うかもしれませんが、これが真実です。
いつ死を迎えたとしても、そのときに「よかったな」と思えるような生き方の積み重ねが「良い生き方」であるといえるでしょう。

「良い生き方」に具体的な正解はないですし、他人が評価するものではありません。
また「いつどこで死んでも大丈夫」と受け止めることは困難です。
しかし「どのように生きて、いつどのように死んでも、決してあなたを見捨てない」と世間の評価を超えた阿弥陀如来のまなざしのなかで、限りあるいのちを精いっぱいに生きることができる道が届いています。
その如来より賜りたる仏道を聞く場所がお寺です。

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2021年08月01日