良心の鏡は曇りやすい

この法話をご覧のあなたは、自分の心を映す“鏡”をお持ちですか?

普通の鏡は姿や形を映しますが、心を映すことはできません。
では、心を映すことのできる“鏡”とは、どういうものでしょうか。
自分の心がどのような姿形をしているか確認し、整えられるような内面の“鏡”には、たとえば「良心」があります。

よく「自分の良心に照らして……」という言い方をするように、何か問題が起こったときに、良心を判断の基準として、どうすべきかを考える人が多いのではないでしょうか。
そのうえで、良心に恥じない行動をするのが、人間としては自然なことと言えるでしょう。
しかし、難儀なことに人間の良心という“鏡”は、いつも明瞭であるとはかぎりません。
それどころか、非常に曇りやすいのです。

会社ぐるみの不正が、ときどきマスコミで報道されます。
上司が「こうしよう」と不正を言い出したときに、多くの社員には「それはやってはいけないことだ」と良心をとがめるだけのこころの“鏡”が健在だったはずです。

ところが、「会社の利益のためだから仕方がない」などと言い訳をしているうちに、良心という“鏡”が曇りはじめ、やがて不正をはたらいているという罪の意識さえマヒしてきます。

「会社の利益」という欲望が、良心を曇らせるのです。
個人の場合であれば、「もっと大きな家に住みたい」「もっとたくさんのお金が欲しい」「もっと出世がしたい」「もっと人に認められたい」など、自分の利益に対する際限のない欲望が、心の“鏡”を曇らせます。

一方では、地位や財産に恵まれても、自分を見失わない人がいます。
では、そういう人は、曇ることのない良心の“鏡”を持っているのでしょうか。
──いいえ、曇ることのない特別な良心の“鏡”などありません。
その人は、良心の〝鏡〟が曇るとき、その曇りを映し出し、拭い去るはたらきをするものを持っているのです。
それは人によって異なりますが、仏教の教えにおいては、「いつも変わらずに私の心を映し出してくださる仏さまの心」と我が身に聞かせていただきます。

先月の言葉

翌月の言葉

2019年10月01日