迷信に惑わされ 正信を見失うことなかれ[隅谷俊紀]

仏教の基本は「迷いを転じて悟りを開く(転迷開悟|てんめいかいご)」です。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、このことを誰にでも受け取りやすいように「往生浄土」と明らかにしました。

しかし、現代人には身近に感じられない教えかもしれません。「悟り」とは、日常生活とは無関係な印象があるからでしょう。

私たちに身近なところで味わうことができる教えのひとつに「生死無常|しょうじむじょう」が挙げられます。
「私は生まれた以上は必ず死んでいかなければならない。明日のいのちも定かではない」ということを、いかにして自分の身に受け止めていくかを仏教は説きます。

また、仏教では世の中のことをどう考えるのでしょうか。テレビやインターネットでニュースを見ると、今この瞬間も次から次へと事件が起きていることが分かります。
「政治が悪い」「学校教育が悪い」「家庭環境が悪い」と、責任を追及することは誰にでも簡単に出来ます。
しかし、それを続けると「自分自身はどうであるのか」と、仏教で大切な「自己を省みる視点」が失われます。

「善良な市民」で世の中が成り立っていることがほとんどであるにも関わらず、事件が止まることはありません。
親鸞聖人は「人は誰でも、“しかるべき縁”がはたらけば、どのような行いもするものである(さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし)」とおっしゃっています。
人間は誰もが煩悩や欲望のままに生きています。そのことに私自身が気が付かなければ、世の中の動きに引きずり回され、人生は空しく終わってしまうでしょう。

真実の仏さまを仰いで生きるということは、この危うい私のありのままがの姿が知らされると同時に、その私が仏さまに支えられ、導かれて生きるということです。決して煩悩がなくなるということではありません。
「煩悩のままに生きることが迷いである」と知らされ、仏さまを依りどころとした安心の中を歩むのが、親鸞聖人の明らかにした「往生浄土」の人生です。

先月の言葉

翌月の言葉

2019年09月01日