親はわが子が人生でつまずかないように、早め早めに手を差し伸べ、平らな道を歩ませようとします。
わが子が何かでつまずくことがあると「行政が悪い」「学校が悪い」などと外部に原因を求め、自分やわが子に原因を求めようとはしません。
人生は平らなのが当たり前。道がでこぼこしていてつまずくのは、行政や学校がちゃんと平らにしていないからだと思っているのでしょう。
しかし、人生は平坦ではありません。でこぼこ道が当たり前です。しかも、避けたくても、それは避けては通れません。
人間には生きている以上、自分の思いどおりにならないことによる「苦」がついてまわるからです。
今のような複雑な社会であれば、社会的なつながりの中でせざるを得ないことがたくさんあります。
それらも、結局は自分の思いどおりにならないという意味で、「苦」ということになります。
思いどおりにならないことを思いどおりにしようとするのは、自分勝手な欲望のなせる業(わざ)です。でこぼこ道を平坦にしようとするのも同じことです。
そういう欲望まみれの人間が形づくる世の中ですから、当然、対立や争いが生じ、それがまた次の苦しみを引き起こします。まさに、人生はでこぼこ道の連続なのです。
お釈迦さまは、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の四つの真理(四諦)という基本的な教えを説かれました。
はじめの苦諦は、「一切が苦である」、まさに「人生はでこぼこ道だ」ということです。
そして、最後の道諦では、その「苦」を克服していく道として、八正道(はっしょうどう)という八つの正しい行いを説いておられます。
①正しく見ること(正見)
②正しく考えること(正思惟)
③正しく言葉を用いること(正語)
④正しく行動すること(正業)
⑤正しく生活すること(正命)
⑥正しく努力すること(正精進)
⑦正しく思い、気づかうこと(正念)
⑧正しく精神を統一すること(正定)
の八つです。
「正しく……」と言われても、それを実践するのは、社会生活の中でさまざまなことに翻弄されている身には難しいことです。
しかし、いろいろな場面で困難に出遭ったら、まず苦諦、「でこぼこ道を歩むことは避けられない。人生とはもともとそういうものだ」ということを思い出し、次に正見、「では、落ち着いて目の前の事実を正しく見直してみよう」と考えてはいかがでしょうか。
そういう構えを持って生きることができれば、何かに直面してあたふたしたり、落ち込んでしまったりしても、少し間をおいて、回復の歩みを始めることができます。