死後の話

千葉県のお寺へ出向しました。


とても美しい境内です。


安方先生の法話の音源データをお聴聞しながら帰りました。

「人間は死んだらどうなるのか」

と考えたことはないでしょうか。

この話は家族や学校の先生は教えてくれません。

ところが、お寺ではそうした話を聞くことができます。
では、私だったらどう話すのか。

私の宗旨は浄土真宗ですから、「人間は死んだらみんな浄土へ往生して仏さまとなる」……と話すかと言えば、それは違います。
そもそも、仏教では死後をどう考えるのでしょうか。
人間は生きているとき「良いこと」と「悪いこと」をします。

亡くなるときに今までしてきた「良いこと」と「悪いこと」を比べて、「良いこと」の方が多い人は、今よりも少し良いところへ行きます。

「悪いこと」の方が多い人は今よりも悪いところへ行きます。

「悪いこと」ばかりの人は地獄に堕ちます……と仏教は説きます。
人間は100人いれば、100通りの生き方があります。
つまり、「良いこと」と「悪いこと」の数は一人ひとり異なります。兄弟でも親子でも違う。

ということは、みんな違う世界に行かなければいけません。
これは悲しいことです。愛する人と離ればなれの世界となるのは誰もが避けたいはずでしょう。
この私たちの有り様を悲しんでくださったのが阿弥陀如来という仏さまです。

「私が南無阿弥陀仏の名の仏となって、あなたを救うよ」とおっしゃる仏さまですから、この「阿弥陀如来のお念仏を聞き受ける者は、いのちが終われば同じ浄土へ参っていく」というのが本当のところです。
「死後の世界はない」「地獄は存在しない」と考える人は、現代だけではなく紀元前から多くいます。

しかし、例えばテレビで報道される残虐な事件を引き起こした犯人は、死んだら無に帰るのでしょうか。

「あの人だけは地獄に堕ちて欲しい」

と考えることはありませんか。
もうひとつ、地獄という死後の世界が失われたときに、私たちの世界に地獄が現れ出てきます。

「死んだら無に帰すから何をしても構わない」と考える人が増えるからです。

「こんなことをしたら地獄に墜ちるかも……」と地獄を持っている人は心にブレーキが生まれます。

「死んだらおしまい」とブレーキが失われると、人間は欲望のままに過ごします。これほど恐ろしい世界はありません。
だからといって、自分を律して清廉潔白に生きることができるかといえば、それも難しいのが本当です。
そのことをご覧になって

「悲しいですね。辛いですね。せっかくいのちをいただきながら、人を傷つけ自分も傷つきながらしか生きていくことができないか。そうであれば、私があなたを救う仏となる」

とおっしゃった仏さまの慈悲をお聞かせにあずかるのが浄土真宗です。


現代は「生」と「死」がまったく別のものとして扱われてしまっています。しかし、本来は紙の表裏のように表裏一体なのです。

生まれてきたものは、必ず死んでいかねばいけません。別のことではありません。

生まれて生きるということは死ぬことであり、死ぬということは生まれて生きることです。

死の問題は現在の私の生の問題に大きく関わっています。

合掌

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2019年05月22日