5月21日は浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の誕生日です。
京都・西本願寺や東京・築地本願寺をはじめとして、全国の浄土真宗寺院では「降誕会(ごうたんえ)」という法要が執り行われます。
「誕生日」といえば、めでたいことの象徴です。
ところが辞書で調べると「誕」には、「うまれる」の意味以外にも「いつわる」の意味が出てきます。
最近では「話を盛る」といった表現があるように、「言葉が延びる」と書いて「誕」です。
「誕」=「おおげさなウソをいう」「でたらめなさま」と言われると、「誕生ってめでたいことじゃないの?」と不思議に感じる人もいるでしょう。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』に「心口各異(しんくかくい)言念無実(ごんねんむじつ)」とあります。
思っていることと言っていることが別であり、言葉にも思いにも真実がないのが私たち人間です。
岡本茂樹先生の『反省させると犯罪者になります』には、次のような体験が綴られています。
仕事を終えて、コンビニで買い物をした後、駐車場から出ようとして自分の車をバックしたとき、止まっていた車に当ててしまったのです。
相手の車には運転手が乗っていました。
止まっている車に当てたのですから、100パーセント私が悪いのです。
幸い、車から降りてきた相手の方は優しく、私のミスをとがめることはありませんでした。
ここで言いたいことは、そのときの私の行動と心理状態です。
私は自分の不注意であることは分かっていたので、ひたすら
「申し訳ありませんでした」
「本当にすみません」
という言葉を連発しました。
しかし内心では、このとき相手に対する「謝罪の気持ち」は湧いてきませんでした。
〔中略〕
心の中で
「なんでもっと注意しなかったのだろう」
「ああ、ついてないなあ」
「しかし、相手の人が優しい人でよかった」
〔中略〕
といったことが、次から次へと浮かんできました。
繰り返しますが、私の頭の中には、「相手に対して申し訳ないことをした」という思いは、このときはまったくありませんでした。
それにも関わらず、相手に対して、
「すみませんでした」
「本当にごめんなさい」
という言葉をひたすら言い続けているのです。
このような事故とまではいかないごく小さな出来事であれば、ほとんど毎日のようにあるのではないでしょうか。
自分を離れ、相手の気持ちになって自分の行為を振り返ることはなかなできません。
どこまでいっても、自己中心的なあり方から離れられないのが私たちの有り様です。
煩悩に振り回され、自分の思い通りにならない世界を思い通りにしようとすればするほど、私たちの苦悩は深まります。
そして、そのことにも気付くことも、抜け出すこともなく、生まれては死ぬ……これが私たちの姿のようです。
「姿のようです」と書いたのは、私たちは自分ではそのことを知ることができないからです。
自分はどこから来て、どこに居て、どこに向かっているのか……私たちの有り様を「迷い」といいます。
「真実の世界」とはほど遠い「嘘偽りの世界(誕)」が私たちの世界であり、親鸞聖人はその世界に降りたって如来の真実を伝えてくださった──ということにお礼を申し上げて仏縁を結ぶのが「降誕会」です。
そのため、「親鸞聖人、ご誕生おめでとうございます」ではなく、「親鸞聖人、ご誕生ありがとうございます」と申します。
合掌