『歎異抄』という書物には浄土真宗の教えそのものを表す「末通らない」という言葉が出てきます。「人間は、首尾一貫して筋の通ったことはできない」といった意味です。
たとえば、大きな災害が起きたときに「何か援助をしたい」と思う方は少なからずおられます。「お金を寄付する人」「物資を支援する人」、さらには「被災地へ出かけていってボランティア活動に精を出す人」もいるでしょう。
その気持ちや行為は素晴らしいと思いますが、良いことをやろうとしても完全にやりきれず、中途半端なことで終わってしまうのが、人間の悲しさ、つらさです。
人間は万能ではないのですから当たり前と言えば当たり前で、「やったほうがいい」「こうすべきだ」とわかっていても、思う通りにできないことはたくさんあるのです。
せっかく良いことを積極的にやろうとしているのに、能力が及ばず、思う通りにいかない。所詮、人間には限界があるのだと痛感させられる場合に、この「末通らない」という言葉が出てくるのです。
それは、何でも努力すればできるというものではなく、人間の力ではどうしようもないことがあるのだという自覚にもつながります。
力及ばず成し遂げられないことばかりでなく、しでかしてしまって取り返しのつかないことも数えきれないほどあるものです。
過去を消すわけにはいきませんから、一生背負って生きていくしかないのです。
そうして、自分が償えぬことを積み重ねて生きているという事実に向き合わざるを得ないとき、やはり自分が「末通らないものだ」ということに突き当たります。
力及ばず、償えないという痛みをともなう経験を通して、自分が末通らないものだということに気づいたとき、仏さまが私を常に見守り、無条件に大きな慈悲のこころで包んでいてくださるということが、私にとって「あるか」「ないか」ではなくて「なくてはならない」ということが感じられます。
そして、私とこの世界を包み込み、支えつづけてくださる仏さまの大きな慈悲のこころを感じられたところから、末通らない私が歩んでいける新しい道が拓けるのです。