仏教は「なぜこの苦しみが発生しているのか、この苦しみを解決するにはどうしたらいいのか」という問いに「その苦しみの原因を辿り、その根本を断てば解決する」と教える宗教です。
私たちの苦しみの原因は「煩悩」にあります。あるがままの真理を、煩悩によってあるがままに見ることができないことで苦しみが生じます。
日本では大晦日に108回の鐘を撞く風習があるため「煩悩は108個ある」と思っている人も多いかもしれません。108という数字は、煩悩の種類が数限りなく多いことを象徴しています。
煩悩の代表といわれるのが貪り(貪欲)・怒り(瞋恚)・愚かさ(愚痴)の「三毒の煩悩」です。
貪りは「好ましいものへの執着」、怒りは「好ましくないものへの嫌悪」、愚かさは「真理や正しい道を知らないこと」をさします。
煩悩とは具体的にどのようなものでしょうか。『仏説無量寿経』には次のような言葉があります。
田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。……田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。
【訳文】田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。……田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。
たとえば「お金がない」「家がない」「財産がない」と嘆く人がいます。しかし、あればあるで「誰かに奪われるのではないか」「事故や災害ですべてを失うのではないか」と心は安まりません。また、人と比べて「まだまだ足りない」と嘆きます。
煩悩にとらわれている私たちは、本当に安らかな心を保つことが難しいです。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(すべてのものに固定した実体はない)」のあるがままの真理が分からない愚かな私たちは、この世界に「変化しない固定した実体」が存在ないにも関わらず、目の前の物事にとらわれ、「有る」「無い」と振り回されて苦悩します。
今から約2500年前にお釈迦さまは、次のようにおっしゃっています。
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
私自身のいのちも、今まさに移り変わっています。「固定した実体のない存在である」という仏教の真理観からは、「わがもの」として何かを所有しているなどという考え方は生まれません。
とはいえ、煩悩を断ち、何ものにもとらわれず、真理に目覚めて生きることは困難です。私たちの日常が、いかに仏教のさとりからかけ離れたものであるか……それは真剣にさとりを求めようとすればするほど痛感されるでしょう
だからこそ浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、自らも含めて私たちを「煩悩具足の身である」とおっしゃいました。
そして人間の苦悩を超える道として、阿弥陀如来の救いに委ねる浄土真宗の仏道を明らかにされたのです。