仏教は今から2500年前にインドのお釈迦さまが開かれました。
お釈迦さまの弟子の一人にヴァッカリという人がいます。彼はお釈迦さまの姿の神々しさに憧れ、その姿を常に見ていたいがために出家しました。
つまり「仏さまの教えを聞きたい」「生死の苦悩を抜け出たい」という動機で出家したわけではなかったのです。
あるときに快復の見込みがない病に倒れた彼は「死ぬ前にお釈迦さまの姿を一目だけ仰ぎ見たいが、自ら赴けないのでお見舞いに来て欲しい」と仲間に伝言を頼みました。
その願いを聞いてやってこられたお釈迦さまに対して「いつもお釈迦さまのお姿を見たいと願っていましたが、永らくそのご尊顔を見てこなかったことを後悔しています」と彼は言ったのです。
するとお釈迦さまは彼に顔を近づけ手を握り「私の顔が見えますか、手の感触はわかりますか。私も随分歳を重ね、昔と変わり老いたことがわかりますか」と尋ねました。
うなずく彼に「私の姿に憧れて、その肉体を見て何になるでしょう。仏の教えを見る者は仏を見るのです。仏を見る者は仏の教えを見る。仏を見たいならば、仏の教えを見なさい。仏の教えを見る者は仏を見るのです」と告げます。
この言葉によって彼は「すべてのものは移り変わる(諸行無常)」「すべてのことは思い通りにならない(一切皆苦)」という仏教の真理を信知しました。
同時にお釈迦さまは「死を畏れることはない」といい、生・老・病・死のいのちの有り様を領解したならば「命の終わりは悪いものではない」と諭しています。
私たちは、いのちをはじめすべてのものを煩悩に覆われた自己中心的な欲の眼でしか見ることができません。
そのような私たちであるからこそ、阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」の名号となってこの身勝手な私に常に寄り添い、いのちの尊さに気づけよとはたらいてくださっています。