とある心理学者の先生が次のようなお話を紹介されていました。
ある大学での実験。アメリカ出身の学生と日本出身の学生とに、人物をモデルとしたポートレート写真を撮ってくるように課題を出しました。すると日本出身の学生は人物だけでなく、椅子や部屋の様子など背景を含めた写真を撮り、アメリカ出身の学生はまるで証明写真のように人物のみをフォーカスしたバストアップの写真を撮ってきたのです。
「周囲との関係性のなかで人物を捉えようとするか、人物の存在そのものを強調するか。アジアと欧米との物事の捉え方に関する文化の違いがよく表れている」と解説がありました。
もちろん、どちらの文化が優れているという問題ではありません。大切なのは「人はみな同じ現実を見ているとは限らない」ということです。
その先生は「結局のところ、人間は自分が見たいものを、見たいように取捨選択して見ているのです」とお話を締めくくられました。
「自分が見たいものを見たいように見ている」というこのご指摘は、まさに仏教との重要な接点を示しています。
お釈迦さまがお説きくださった教えのなかで、もっとも大切なひとつが「如実知見」という物事の見方に対する教えです。
仏典には「人間はありのままの現実を正しく認識していない」と何度も説かれています。
この世界のあらゆるものは常に変化し、「私のものである」と執着しているものの実体が何ひとつないにも関わらず、そのことに気づいていません。
いつでも「ああしたい」「こうしたい」と、すべてを自分の思い通りにしたいという欲求に振り回されています。
そうした自己中心的な見方を転換して「ありのままに世界を見ること」、これが仏教の智慧なのです。
「如来は三界のすがたをありのままに見る」と経典には説かれています。どこまでも自分の見たいようにしかこの世界を見ることのできない私たちに対して、仏さま(如来)がいかにこの世界のすべての有り様を捉えているかを端的に示した言葉です。
そのような視点に立つと、最初に紹介した見え方の違いの話は、単に文化の違いを示すものというよりも、そもそも人間が生まれ持っている認識の不確かさを表したものというべきでしょう。
「ありのまま」に見る仏さまの世界があることを通して、私たちの現実の自己中心的な姿に気づかされること。ここに仏教の学びの意味のひとつがあるのです。
〈『いのちの栞』より〉