十二光義

東京都町田市にやってきました。


法話のご縁がしばらく重なります。


お寺に戻ってから、先輩が主催する勉強会のために予習を始めます。

明日開催なので今からではどうやっても間に合いません。


浄土真宗のご法義を勉強するときには「聖教(しょうぎょう)」を中心に学ぶか、「論題(ろんだい)」を中心に学ぶかに分けられる──と先生から聞きました。


前者は『仏説無量寿経』や『教行信証』、『御文章』のように一冊の本を読み進めていく勉強法です。

後者は「称名とは」「信心とは」のようにテーマを設けて、関係する文を読み進めていく勉強法です。


夏に京都・西本願寺で開催される安居では、基本的に講義が4コマあります。


最初の3コマが和上による「聖教」の講義、最後の1コマが懸席(けんせき)者(安居出席者)による「論題」の会読(かいどく)です。

明日の勉強会では、今年の安居で用いる三つの論題の中から「十二光義(じゅうにこうぎ)を学びます。

といっても論題を聞いただけでは何を勉強したらいいのかよく分かりません。聴講3年、懸席2年と5年も通っているのに恥ずかしい限り……。


そこで役に立つのが事前に発表される論題の提要です。問答を重ねるときに地図の役割を果たします。


まず【題意(だいい)によって、論題のテーマが何を問題として、どのように問題を明らかにするのか見通しをつけます。スタート地点とゴール地点の設定です。

阿弥陀仏の果徳(かとく)である十二光の意をうかがい、これらは無碍光(むげこう)を中心とする衆生摂化(しゅじょうせっけ)のはたらき、すなわち名号(みょうごう)の徳義(とくぎ)を表したものであることを明らかにする。


阿弥陀如来という仏さまは無量の功徳を具えています。その中でも「十二光」と表現される功徳の内容についてうかがう論題です。

その上で、「十二光」が「無碍(なにものにもさまたげられることがなく、自由自在であること)光を中心にした衆生(生きとし生けるもの)摂取化益(救い取って、教化し、利益を与えること)のはたらき」=「名号(南無阿弥陀仏)の徳義(功徳、はたらきの内容)」であることを明らかにします。

要するに、「十二光」=「名号の徳義」を明らかにするための論題です。多分。


次に【出拠(しゅっこ)です。このテーマは、どの聖教の中のどの文に基づいているのかを確認します。
提要には、次のふたつが挙げられています。

●『大経』第十二願成就の文

仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬、二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至一仏刹土を照らす。このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りての後に、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし。ただわれのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞、大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん。それしかうして後、仏道を得る時に至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん」と。仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と。

さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明は、もっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。
無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽くし、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽くすのである。その光明は七尺を照らし、あるいは一由旬を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽くす。このため、無量寿仏を無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と名付けるのである。
この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生まれる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあって、この光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。
無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽くし、その名の聞こえないところはない。わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。もし人びとがその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」
釈尊が仰せになる。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽くすことができない」

●『讃阿弥陀仏偈』の文

智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。

解脱の光輪限斉なし。ゆゑに仏をまた無辺光と号けたてまつる。
光触を蒙るもの有無を離る。このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。

光雲無礙にして虚空のごとし。ゆゑに仏をまた無礙光と号けたてまつる。
一切の有礙光沢を蒙る。このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。

清浄の光明対ぶものあることなし。ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる。
この光に遇ふもの業繋除こる。このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。

仏光照曜すること最第一なり。ゆゑに仏をまた光炎王と号けたてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。

道光明朗にして、色超絶したまへり。ゆゑに仏をまた清浄光と号けたてまつる。
一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得。ゆゑに頂礼したてまつる。

慈光はるかに被らしめ、安楽を施したまふ。ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
光の至るところの処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。

仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。

光明一切の時にあまねく照らす。ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる。
光力を聞くがゆゑに、心断えずしてみな往生を得。ゆゑに頂礼したてまつる。

その光仏を除きてはよく測るものなし。ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる。
十方諸仏往生を歎じ、その功徳を称したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。

神光、相を離れたれば、名づくべからず。ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる。
光によりて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふところなり。ゆゑに頂礼したてまつる。

光明照曜すること日月に過ぎたり。ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる。
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず。ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる。

智慧のみ光は量ることができない。ゆえに仏をまた無量光と申しあげる。
限りあるすべての者はその光のはたらきを受ける。ゆえに真実明を礼拝したてまつる。

解脱のみ光は限りあることがない。ゆえに仏をまた無辺光と申しあげる。
その光を受けた者は有無の邪見を離れる。それゆえ平等覚を礼拝したてまつる。

み光のはたらきの自在なることは虚空のようである。ゆえに仏をまた無礙光と申しあげる。
すべての迷いの衆生は利益をこうむる。それゆえ難思議を礼拝したてまつる。

清らかなみ光はならぶものがない。ゆえに仏をまた無対光と申しあげる。
この光に遇う者はみな業の縛りが除かれる。それゆえ畢竟依を礼拝したてまつる。

仏のみ光の輝きは最尊第一である。ゆえに仏を光炎王と申しあげる。
三途の闇の苦しみも離れることができる。それゆえ大応供を礼拝したてまつる。

さとりのみ光はうるわしくその色ことにすぐれている。ゆえに仏をまた清浄光と申しあげる。
一たびお照らしを受けるならよごれた罪が除かれて、すべて解脱を得べき身とはなる ゆえに礼拝したてまつる。

慈悲のみ光は広く照らして安らかな喜びを施す。ゆえに仏をまた歓喜光と申しあげる。
この光の届いた人の心には法の喜びをおこさせる。大安慰を礼拝したてまつる。

仏のみ光はよく心の闇を破られる。ゆえに仏をまた智慧光と申しあげる。
すべての仏や三乗のかたたちが、ことごとくたたえられる。ゆえに礼拝したてまつる。

み光はすべての時にあまねく照らされる。ゆえに仏をまた不断光と申しあげる。
この光のいわれが聞こえたならばその信は一生断えないで、みな往生を得させられる。ゆえに礼拝したてまつる。

そのみ光は仏のほかは測ることができぬ。ゆえに仏をまた難思光と申しあげる。
十方の仏たちも衆生の往生をほめ、弥陀のその功徳をたたえられる。ゆえに礼拝したてまつる。

不思議なみ光はすべての相を離れて名づけることができぬ。ゆえに仏をまた無称光と申しあげる。
衆生を成仏させてくださるみ光は輝きわたり、諸仏は讃嘆なされる ゆえに礼拝したてまつる。

み光の照らし輝くことは日月の光よりもすぐれている。ゆえに仏をまた超日月光と申しあげる。
釈迦仏がほめられてもなお尽すことはできぬ。ゆえにわたしは無等等を礼拝したてまつる。

論題の言葉がそのまま出る場合と、論題の言葉が示す意味を持った文が出る場合があります。

いずれにしても、論題で取り扱うテーマの問題提起となる聖教の文が【出拠】です。


続いて【釈名(しゃくみょう)で言葉の解釈を決めます。今回は「十二」と「光」です。

例えば「十二」は「十二種類」と「十二番目」で意味が大きく変わってしまうため、しっかりと概念規定しなければ内容を論じられません。


ここまで済んで、ようやくメインとなる本論の部分である【義相(ぎそう) 】に入ります。明日、詳しく勉強します。

合掌

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2019年05月28日