毎年、お盆の期間はお寺で法要を毎日おつとめします。
法話は、基本的に『仏説盂蘭盆経』の説示から組み立て、例話へと展開します。
津村別院と大阪教区の発行する『御堂さん』「これなら分かる歎異抄」に、次のような文章が掲載されていました。
大阪の豊島学由先生が、桐渓順忍和上にお尋ねしました。
「和上さま、この『盂蘭盆経』というのは、中国で成立した疑経ではないでしょうか?」
すると、桐渓和上は疑経であるかどうかには全く触れずに、次のように述べられたそうです。
「このお経が私たちに教えてくれることがふたつあります。
ひとつは母親というものは、子どものために貪ることがあるということ。
間違いだと分かっていても、親は過ちを犯すことがあります。
餓鬼道に堕ちるかもしれないと分かっていても、子どものために貪ってしまうのが親というものです。
もうひとつは、餓鬼道に堕ちた母を凡夫では救えないこと。
たとえ神通第一といわれる目連尊者でも母を救えませんでした。
だからこそ、この親子が救われていく阿弥陀さまのご法義が必要なのです。
そのような衆生をご覧になられた阿弥陀さまが、凡夫が救う誓いを建立されました」
悲しいことですが、私たち凡夫には他者を救う力はありません。
自分が迷っていることも知らず、亡き人を今の自分が救えると思っていることは自惚れではないでしょうか。
だからこそ、親鸞聖人はおっしゃっています。
「浄土へ参って、阿弥陀さまと同じさとりをひらいたならば、迷えるもの……そのなかでも、あなたの一番近しかった人が救うことができるのですよ」。
合掌