地獄先生22

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、どのように地獄を受け止めていたのでしょうか。


聖人には「来世に地獄に堕ちる恐怖」を語った言葉はありません。
地獄について語られたものとして有名なのが『歎異抄(たんにしょう)』に登場する次の一文です。

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
どのような行も満足に修めることのできない私には、どうしても地獄以外に住み家はないのです。

この言葉から、聖人が地獄を「自分とは関係のない世界」と見ていなかったことが分かります。


すると、浄土真宗の教えを聞く者は、宗祖と同じく「自分は地獄に堕ちる」という自覚が必要なのでしょうか。

結論から言えば、聖人は「もしも阿弥陀如来の救いに出遇っていなければ、自分は地獄に行くところであった」と受け止められていました。

「私は来世に地獄に堕ちるかもしれない」と恐れるのではなく、自身に向けられた如来の大悲を通して、今の自らの罪の重さを表わす世界として、深い悲しみを持って地獄を受け止められたのです。
同時に、その私を救ってくださる仏さまを「ありがたい」「もったいない」と喜んでいらっしゃいます。


光が当たることと、闇が去ることは同じ出来事です。そして、光がなければ、闇の存在に気付くことはできません。
わが身の罪の重さは、仏さまの救いに出遇ってはじめて明らかとなります。
他人が頭から決めつけたり、自分で自分の中を探して見つけるものではないのです。


また、「地獄は私の罪が裁かれていく世界ではなく、私のたどってきた迷いの過去である」と受け止めることもできます。
そして、阿弥陀如来が私を救おうと命懸けでご苦労くださったお育ての歴史があることを味わえるでしょう。

合掌

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2019年06月23日