地獄先生21

地獄の話を聞いて、気に入らない相手に「あんな人は地獄へ堕ちて欲しい」「あいつは地獄行きだ」と考えることは簡単です。


ところが、自分自身が地獄に堕ちるような悪人と受け止めることは難しいものです。
人間は自分の生き方に後悔することがあっても、なかなか自分で自分の罪を真剣には受け止められません。


ここで注意したいのは、別に科学の発達している現代だから地獄と聞いてもピンとこないわけではないことです。
室町時代の蓮如上人は『御文章』に次のように述べています。

みなひとの地獄におちて苦を受けんことをばなにともおもはず、また浄土へまゐりて無上の楽を受けんことをも分別せずして、いたづらにあかし、むなしく月日を送りて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。ただ朝夕は、ひまをねらひて、枕をともとして眠り臥せらんこと、まことにもつてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。

このように「地獄と聞いても、浄土と聞いても、意に介さない人」は昔からたくさんいたのです。


一方で、地獄の話を聞いて「なんて恐ろしいんだ」「自分も地獄に堕ちるのかもしれません」と素直に聞き入れる人間もいます。

その人たちが本当に地獄を聞き入れているのか言えば、そうではありません。


中国の善導大師は、『観経疏(かんぎょうしょ)』の上品下生釈(じょうぼんげしょうしゃく)で次のように述べています。

また信ずといへども深からず。善心(ぜんしん)しばしば退し、悪法(あくほう)しばしば起る。これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。もし深く生死の苦を信ずるものは、罪業(ざいごう)畢竟(ひっきょう)じてかさねて犯さず。

「善因楽果・悪因苦果」の因果の道理を信じていれば、決して悪さなんかしない……といったところでしょう。


要するに、人を傷つけたり、嘘をついてしまうのは「悪さをすると地獄に堕ちる」と分かっていないからです。
本当に「悪さをすると地獄に堕ちる」と分かっている人は、悪さをするわけがありません。

「分かっちゃいるけどやめられない」ではなく、「分かってないからやめられない」のが本当です。


ちなみに、「哲学者のソクラテスも同じような立場である」と松尾和上に教えていただきました。

合掌

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2019年06月22日