仏教はキリスト教と違って、時代により、地域により、考え方に大きな違いがあります。
先ず、仏教の開祖である釈尊(ゴータマ・ブッダ)の言葉に近いと考えられているものに
「生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ」(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫・394)
があります。これは、仏教が示す倫理の根本と言えます。
さらに言えばこれは単に仏教の教えに留まらず、宗派を超えた人類普遍の倫理であります。これは後に在家信者が身につけるべき規範としての五戒(不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒)にもまとめられ、仏教共通の決まりとなりました。
しかしながら日本仏教の一派である浄土真宗は、この路線を外れて戒律にとらわれない立場をとりました。それが高校の教科書にも記述されている「悪人正機(あくにんしょうき)説」です。
12世紀から13世紀、親鸞は師・法然の教えを受けて「善を行うことができない凡夫が救われるのは【南無阿弥陀仏】の念仏一つである」と説きました。これは、しばしば誤解を受けるような「やりたい放題(造悪無碍といい、悪事を犯しても往生のさまたげにならないという理解のこと)」の道徳破壊ではありません。「自己を顧みて、立派なことは何一つできない私が救われるのは、私の力ではなく阿弥陀如来の救いのはたらきを受け容れるしかない」という自己省察のうえにある救いです。
悪人とは上から犯罪者を指さして批判する意味ではなく、先ずは自ら省りみていう言葉です。そこから「水に溺れる人」「病気の人」が先ず救助や治療の対象となるように、「社会的に弱い立場の人々」「罪を犯してしまった人々」……究極的には煩悩を抱えて苦悩を生きる私が救われる道となりました。
現代社会でも懲らしめるだけでは悔い改めて更生しようとする人は少ないでしょう。むしろ「今度はばれないようにやろう」「自分を苦しめた相手に復讐しよう」と考える人々が少なくないのが現状です。
釈尊(ゴータマ・ブッダ)のもう一つの言葉を引用します。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことはない。怨みをすててこそ、怨みは息む。これは永遠の真理である」(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫・3)
「本当に更生できる道は懲らしめる以外にある」と、人間を見詰める中から再検討されて欲しいものです。