生死の苦海の「生死」は「しょうじ」と読み、迷いの中で苦しみながら生まれ死にを繰り返すいのちの姿……すなわち輪廻を表します。
私たちが自分の迷いに溺れながら、輪廻を繰り返しているので「うみ(海)」といわれているのです。
そこに一切の迷えるものを救い取るという願いの「船」に乗り、阿弥陀如来は私たちを迎えに来てくださっています。
気付かぬ私たちに「お前を救うのだ」と喚び続けてくださる。その喚び声が「南無阿弥陀仏」です。
私たちの口に称える「南無阿弥陀仏」が、私たちに向けられた阿弥陀如来の慈悲の喚び声であり、その喚び声に気付いて応える言葉もまた「南無阿弥陀仏」でしかありえません。
以前、とある方が「勝ち組・負け組などと分け隔てられている私たち。本当には誰からも認められていない私たちに、阿弥陀如来は誰も絶対に見捨てないのだと教えてくださるから、私は親鸞聖人が大好きです」とお話しされていました。
今月の言葉にも、私が「南無阿弥陀仏」とお名前をよぶよりも先に、阿弥陀如来が私たち一人一人に名をよび「お前を捨てることはない、この船に乗せる」と手を差し伸べ、はたらきかけてくださるのです。
阿弥陀如来が願いの船に私たちを乗せて、必ず渡してくださる世界を「彼岸」ともいいます。
「彼岸」、つまり彼の岸とは仏のさとりやさとりの国である浄土を意味します。
対して「此岸」、此の岸という言葉もあります。一般には私たちの日常世界であるこの世界をさします。
しかし今月の言葉を味わうとき、私がいるのは此の岸の上ではなく、水の中、それも溺れかかって、水面に浮きつ沈みつしている姿ととらえた方が、より切実に感じられます。
私のことを心配してくださる人がいることは、大きな支えになります。
阿弥陀如来からも「南無阿弥陀仏」という声の手紙が私の元に届けられています。
阿弥陀如来はいつでも、どこにいても、いまここにいる私をお忘れになることはありません。