悩みがあるのは 生きている証

仏教は「第一の矢(苦)を受けても、さらに第二の矢を受けることがない」ということを教えます。第一の矢(苦)とは生きる上で避けられない「老いる」「病気になる」「死ぬ」「愛する人との別れ」といったありのままの現実です。

「仏教を聞いたとしても、現実は変わらない。生きている限り苦はなくならない。仏教を聞いて何の意味があるのか」と話す人がいます。確かに仏教を聴聞したからといって、目の前の苦悩が消えるわけではありません。

一方、「命を大切に」と言いながら「歳をとりたくない」「病気になりたくない」「死にたくない」と望み、ありのままの命を否定して生きています。
これは命を大切にしていることになるのでしょうか。現実的にこうした欲求をいくら望んでも叶うことはありません。にも関わらず、私たちは頭ではわかっていながら「老いたくない」「病気になりたくない」と身勝手な欲求を貪り、それが叶わずに憂い、嘆き、悲しみ、怒り、苦しんでいます。
その解決のために現実から目をそらし、自分の都合を満たすものに執着し、混迷を重ねています。こうした自ら生み出す苦悩の現実を「第二の矢(苦)を受ける」とお釈迦さまは説いています。

言い換えると「老いたくない」「病気になりたくない」とは、命に対する傲慢な欲求ではないでしょうか。その身勝手な欲求を追求するのが科学なのかもしれません。
ですが科学がどれだけ発展をしても、満足することを知らない私たちは、自らのありのままの命の営みから眼を背けている限り、第二の苦を受け続けなければいけません。

これらは「老」「病」「死」だけでなく人間関係の悩みなど、生きることすべてに当てはまります。人はさまざまな縁の中で生き、生かされています。
身勝手な欲求は満たされず、現実は自らの思い通りになりません。そこに苦が生まれ、第二の苦を受けるのです。

仏教を聴聞することは「生死いづべき道」を聞くことです。それは自らの命の営みとその往く末を聞くことなのです。

同時に第二の苦(矢)を受けずに、今を大切に生きる第一歩となります。

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2025年02月01日