綺麗に洗った自分の髪の毛であっても、食事の中に混ざっていたり、部屋に落ちていると汚いと感じるのはなぜでしょうか。
相模女子大学の浮ヶ谷氏は次のように解説します。
「髪の毛が本来あるべきところは頭です。しかし髪の毛は自分の体から離れた途端、自分のものなのか自分のものではないのか曖昧でどっちつかずの微妙な存在になります。
微妙な存在というものは人を不安にさせるのです。人間はあるべきところにあると「いつもどおり」と安心し日常を脅かすものではないと判断します。ところが人間はあるべきところにないものを見ると異変を感じ「日常を壊すかもしれない」と認識するので不安な状態になってしまいます。その結果、汚い、気持ち悪い、居心地が悪いなどとネガティブに感じ無意識に遠ざけようとします。爪も指の先から離れると汚いものに見えるでしょう。
人間はいつでも「こうあるべき」と考えて生きているといいます。
ところが「こうあるべき」という物事へのとらわれによって苦しみが生まれると説かれたのがお釈迦さまです。
日ごろ私たちは「こうありたい」「こうでなければいけない」という思いにがんじがらめになっています。
ですが「こうありたい」と願っても、現実はそう思い通りになるものではありません。
心や身体、そして人生にいたるまで、私たちは「自分こそ主人公であり、思い通りコントロールできるはずだ」と思い込んでいます。
しかしまさにその思い込みこそが苦悩を生み出す原因なのです。自らがつくりだした「あるべき自分」「自分らしさ」によって自ら苦しむという自縄自縛のサイクルの中心に私たちはいます。
では、とらわれから離れるにはどうしたらいいのか……これほど難しいことはありません。「とらわれなくていい」「気にしなくていい」と簡単に言えるのは余裕があるときだけです。日々の生活のなかで、不安や焦りから離れることは容易ではありません。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は「さまざまな執着を断ち切ることができず毎日を過ごす私たちに向き合い、休むことなくはたらきかけて大きな支えとなってくださる存在」である阿弥陀如来という仏さまを依りどころとされました。
「気にしない」人生は難しいです。ただ、大きな安心のなかで「気にならなくなる」人生を恵まれる道が仏教には示されています。