近代は「文明の進歩」という考えが主流でした。しかし核兵器をはじめとする科学兵器の増強と環境破壊は人類の持続の可能性が危ぶまれることを気付かせました。
科学的知識は進歩しますが、生きるための知恵は科学技術のない時代の人びとと現代人とあまり変わりません。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人はご自身のことを「愚禿」と名乗られました。自分自身の愚かさを阿弥陀如来の智慧によって自覚をされたのです。
相手のためにいいと思った行動が、良い結果になるとは限りません。善人と考えられる人が正義を貫くために争いを起こすこともあります。
また「貪り」と生存に必要な「欲」の区別をすることが大事です。自他共存できる範囲での生存欲は必要不可欠であり、誰も否定できません。
今日の問題は一部の人間が地球上の資源を貪り、格差や貧困をつくり出していることです。自由競争の結果のように見えますが、一人ひとりの人間を考えると、はじめから競争の外にいる人びとが少なくありません。生命科学、臓器移植もひとつ間違えると深刻な生存競争に繋がります。
節度ある社会を築き、節度ある競争をする必要がありましょう。欲望を制御するためには、自分を超えた大きな存在が必要です。
「世間の目」という社会的、外的規制が強いといわれる日本文化ですが、かつては「お天道様が見ている」「神様や仏様が見ている」という内面的な支えがありました。
物事を十分に活用せず無駄に捨ててしまうことを意味する「もったいない」という言葉が、エコロジーとの関係で再び注目されるようになりました。
しかし浄土真宗的に受け取ると「無駄にしない」以上に「いま私は、多くの物事を恵まれ、満たされて生かされている」と味わうべきでしょう。豊かな人が貧しい人を我慢させるための言葉ではなく、「生存に必要なことは何か」を問う言葉です。
一時的、表面的な解決は仏教のめざすところではありません。仏教の理論や親鸞聖人の教えと人生から学ぶばせていただきましょう。