今年の夏に京都・西本願寺の常例布教に出講することになりました。
「本山で話すなんて凄い!」と知り合いに言われましたが、地元(関東地区)の布教使団体に所属していれば自動的に順番がめぐってきます。
西本願寺の常例布教は、期間中のテーマを事前に提出しなければいけません。これがなかなか決まらない……。
というのも、基本的に話す内容は「1座完結」をモットーにしているので、テーマをひとつに絞るのは苦手です。
どんな内容の話でも通じるテーマを考える必要があります。
過去に出講された先生方のテーマを見ると、「阿弥陀さま」「念仏」「慈悲」といった自分が考えるような言葉がすでに使われています。
もちろん同じテーマでも構いませんが、せっかくなら他の人がまだ使っていない言葉を選ぼうと、お聖教をパラパラめくり──
【仏意(ぶつい)測(はか)りがたし】
に決めました。
この言葉は親鸞聖人の主著である『教行信証』の「信文類」に出てくる言葉です。
阿弥陀如来がおこした第18願には、「至心(ししん)」「信楽(しんぎょう)」「欲生我国(よくしょうがこく)」の「三心」という3つの心が示されています。
ところが、天親菩薩という高僧は「一心」という言葉遣いをしています。
「三心」か「一心」か……親鸞聖人は「三心」は「一心」に収まると明らかにしました。
では、「三心」が「一心」に収まるのであれば、なぜ阿弥陀如来はわざわざ「三心」を誓われたのでしょうか。
この問いに対して、まず親鸞聖人は
仏意測りがたし
と答えました。「仏さまの心は私に測ることができません」とおっしゃったのです。そして、
しかりといへども、竊(ひそ)かにこの心を推するに
と続きます。「私なりに仏さまの心を推察してみますと」ということです。
この件(くだり)は師匠である法然聖人の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』のオマージュでしょう。
法然聖人は、阿弥陀如来がおこした第18願について「粗悪なものを選び捨てて、善妙なものを選び取った」と述べています。
では、阿弥陀如来は一切の諸行(ありとあらゆる行)を選び捨てて、念仏の一行だけを選び取ることで、衆生の往生を誓う本願とされたのはなぜでしょうか。
この問いに対して法然聖人は、
聖意(しょうい)測りがたし。たやすく解(げ)することあたはず。
【現代語訳】仏のみ心を思い測ることは難しいです。容易に解釈することはできません
と答えています。「聖意」とは、「仏のみ心」の意味です。
この言葉を承けて親鸞聖人は「仏意測りがたし」とおっしゃったのでしょう。
ここから
しかりといへどもいま試みに
と続きます。「しかりといへども」は親鸞聖人も全く同じ言葉を用いています。
親鸞聖人や法然聖人のような歴史に名を残す僧侶であっても「仏さまのことは分からない」と言い切る姿勢は、まさに広大無辺な仏さまの心とその心を賜る念仏者のあるべき姿を表しています。
このテーマであれば、あらゆる話に繋げられそうです。
合掌