操り人形

カメラの勉強の一環で、何冊か視覚認知に関する本を読み漁りました。


人間は、とある景色・風景を見るとき、あるいは写真・画像を見るときに、まずどこに焦点を合わせるのでしょうか。


この写真であれば「赤い花」に注目します。他の対象物と色調が著しく異なる部分、明るい色の部分であるからです。


この写真であれば左側の狛犬……よりも、右上の「南海 住吉大社駅」を注視して読んでしまうのではないでしょうか。


人間は、目立つ色や光以外にも、「人の顔」「交通標識」「文書」など、記憶や知識、経験を通して「有益な情報(が含まれている可能性が高い)」と考えられる部分に、目線が引きつけられる傾向があるからです。


つまり、人の視線ひとつをとっても、「自分の見たいもの」を「自分の見たいように」と、思い通りに動いているわけではありません。
その人が持っている認知能力や記憶、経験に基づいて「動かされている」のです。


お寺でも、板書をすると参拝者はそこに注目します。下を向いていた人も顔を上げます。
プリントや経本を配ると、こちらが頼まなくても読み始めます。


なぜなら、人間は「文書には自分の有益な情報がある」と知っているからです。


この人間の特性を写真に応用するのであれば、主題となる被写体以外には「目立つ色・明るい色」「文書」などを入れないようにする……ということになります。


これは私の友人の結婚披露宴の写真です。主題はもちろん新郎新婦……のはずですが、左上に強い光が入っているため、見た人は視線が散ってしまいます。


光を消すと、主題の新郎・新婦のみに注目しやすくなり、撮影した私の「何を撮りたかったのか」が見た人と共有しやすい写真になったのではないでしょうか。


こうした仕組みは私たちの身の回りにたくさん活用されていて、学問的には「アフォーダンス」「シグニファイア」など、明確に整理され研究が進んでいる分野だそうです。
私は専門家ではないので、説明できませんが……。


最近読んだどの本にも、最先端の心理学や脳科学の見解として「人間には自由意志はなく、環境から受ける刺激に対して無意識のうちに機械的な反応を繰り返しているだけである。人の意思とは錯覚や幻想、まやかしに過ぎない」といった内容のことが書かれていました。


似たような話は仏教の教えにもあります。例えば、唯識(ゆいしき)では「心の中のすべては外側からの他の力によって生じる」ことを「依他起性(えたきしょう)」といいます。

合掌

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2019年10月04日