昨日の投稿で、人間の前世を『安楽集』の記述からうかがいました。
以前、受講した「勧学寮真宗講座」で松尾和上が次のような話をしてくださいました。
どうして私たちは人間として生まれることができたのでしょうか。
蓮如上人は「しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり」とお答えくださっています。
ところが、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五つの戒律を保つことができるほど、私の前世は立派のものだったんでしょうか?
……これは、私たちは前世で地獄にいたことを表わしているのでしょう。
なぜなら、地獄にいたら殺生なんてできません。反対に殺生されるばかりの日々を送ります。
偸盗することもありません。周りに盗むものは何もなく、裸になって鬼に追いかけられるばかりです。
ですから、邪淫などする暇もないし、そもそも相手がいない。
口から発する言葉といえば「うわー!」「ぎゃー!」という悲鳴だけですから、嘘はつけません。
そして、地獄には酒がありません。
……ということで、五戒をキッチリと守ることができます。
『御文章』を典拠として、「人として生まれることができたのは、前世で五戒を保つことができたから」という話は浄土真宗でよく聞きます。
しかし、「どうしてそんなことが可能だったんだろうか?」と疑問でした。
上記の話は、あくまで松尾和上の味わいであり、法話ではありますが、とても興味深いお話しでした。
ちなみに、『安楽集』にはこうした記述があります。
「菩薩化生してもろもろの天衆に告げていはく、〈おほよそ人この百千生を経て、楽に着し放逸にして道を修せず。往福やうやく已り尽き、還りて三塗に堕して衆苦を受くることを覚らず〉」
百千の数多の生を経て人間となっても、仏道修行をすることなく、過去の善根功徳も無駄になって、死んだらまた三悪道に還って、たくさんの苦しみを受けることを分かっていません。
では、どうして「あれだけ苦しかったのだから、もう地獄には堕ちないように頑張って仏道修行をしよう」とならないのでしょうか?
実は、生を隔てると、前世の記憶はすべて忘れてしまうのです。このことを「隔生即忘(かくしょうそくもう)」といいます。
合掌