地獄といえば『往生要集』が有名ですが、他の七祖聖教にも地獄の記述は見られます。
そのひとつが中国の善導大師の『法事讃(ほうじさん)』です。
上巻には『仏説阿弥陀経』を読誦する前の儀礼として「前懺悔」が挙げられています。
自分の罪を悔い改めてから、お経を読むように善導大師はおすすめです。
みづから覚(さと)るに、心(しん)頑(つたな)く神識(じんしき)の鈍きは、まことに地獄にして銅車に臥せしによりてなり。銅車炎々として居止しがたし。
「私たちが頑固な心を持って、仏法を聞いても「ふーん」としか思えないのはなぜかというと、地獄で車の下敷きになっていたから」とお示しです。
その後、「地獄はこんなに酷いところだぞ」と大師は罪を悔い改めるように説いています。
最終的には次のように締めくくられます。
弟子衆等いま地獄を聞きて、心(しん)驚き毛竪(いよだ)ちて、怖懼(ふく)無量なり。
大師は地獄を説くことで、弟子たちは心が驚き、身体中の毛が逆立って、恐れおののくといいます。
つまり、大師は法事をつとめる時には最初に地獄の話をして、参加者を脅すようです。……こんなお坊さんがいたら嫌ですね。
しかし、実際に驚く人はいたのでしょうか? 大師は『般舟讃(はんじゅさん)』で次のようにも述べています。
ただ目の前に酒肉を貪ることを知りて[願往生]
地獄にことごとく名を抄することを覚らず[無量楽]
「凡夫たちは目の前の酒や肉を貪り食うことはよく知っているが、それが地獄に堕ちる行為とはまったく分かっていない」。
どれだけ大師が「恐ろしい地獄に堕ちるぞ!怖いだろ!だから罪を悔い改めて往生を願うんだぞ!」と驚かそうとしたところで、現代と同じく、誰もビビる人はいなかったのではないでしょうか。
大師がわざわざそこまで言わないといけなかったということは、それほどまでに私たちは自分の罪業に鈍感であるということでしょう。
合掌